『御齢十七才の大腿骨』

獨協医科大学名誉教授
山田 喬

 落語には、如何様見せ物の話がありますが、その一つの話のなかでこんな見せ物の呼び声があります。「さあ入って見てごらん!(源)頼朝公の御幼少の折のシャレコーベ(髑髏)!」と云う呼び込みです。解ったようで、解らない云葉です。

 これと同じように表現すれば、小生は『御齢17才の大腿骨』と云うべき、本当の自分の骨を大切にして持っていました。 この骨の病気によって、小生の人生には思いがけない幸運が舞い込んだ経過を個人的な話になりますが書いてみたいと思います。

 讀者の方々は急性骨髄炎(Osteomyelitis)なる病気を御存知ですか?抗生物質のなかった戦前、戦後の時代には、成長期にある若い人が稀ならず罹った病気です。

 原因はブドウ状球菌や連鎖状球菌と云う化膿菌による骨髄の感染症です。切開排膿し、然るべき治療をすれば、抗生物質がなくとも直ってしまふ病気でした。しかし重篤になると、骨は腐ってしまい、化膿菌は血中に入って増殖して、全身に感染は広がり(敗血症)、患者は死んでしまうこともありました。

 小生は17才の時にこの病気に罹り、死の寸前で漸く生命を取りとめました。しかし、この骨髄炎により、下2/3の大腿骨は腐ってしまったのです。まだ、ペニシリンを始めとする抗生物質は開発されず、漸くサルファ剤と云う抗菌物質が用い始められた頃です。直ちに切開排膿した上で排膿用の窓あきのあるギプスにより、右大腿骨が固定されました。
そして、腐った骨の境界がはっきりするまで数ヶ月待った後に、骨膜を残して、その内側にある腐った骨を取り除く手術を受けました。そして再びギプスで固定し、残してきた骨膜下から骨が再生して来るのを待ちました。そして元の骨と同じ状態の骨が出来あがるまで、それからまた半年以上もかかりました。(図1)

(図1)

 かくして始めの手術から一年余りの後に漸く、骨の再生は完了し、松葉杖で歩ける様になりました。17才と云う若い身体であったのが良かったのです。驚く程の再生能が小生の身体にはあったのです。

 この手術により摘出された骨を、小生は外科の先生から貰い、大切に保管していました。
腐骨と云っても、その生理的機能が無くっただけで、骨の外観は本来の形と殆んど変わりませんでした。これが御齢17才の自分の骨です。

 以来この小生には右足のこの病気のため、スポーツや山登りの楽しみは失われました。
しかし、日常の活動には何の不自由もなく、何でも出来る様になりました。

 ところがです。この病気が、その後の小生の人生を期せずして変えてきました。
“災い転じて福となす”と云う言葉がありますが、小生の場合は巧まずして福となったのです。

 まずは太平洋戦争の折に軍隊に入らずに済んだことです。実はわが家は、徳川三百年間、代々農家の地主として生きて来た家柄だったので、家長制度の習慣が根強く残っていました。次男である小生は子供の頃から常々親に軍人になるよう、すすめられており“わが家は三人の男の子が居るのだから、一人位はお国に捧げなくてはならない”などと云われてきました。

 従って、小生はこの足の病気になる直前の春には陸軍幼年学校を志願していました。しかし入学試験当日は上記の足の手術を受けた直後で病院に入院していました。驚いたことに、その試験の数日後に陸軍の憲兵が、わが家を訪れ、「受験を止めたのは軍人になることに怖けずいたのではないか?」などと桎梏く、問いつめられ、また小生の入院していた病院にも調べに来たと云う事を母親から、後になって聞きました。

 若し、その時足が悪くならなかったら、陸軍幼年学校に入り、そして士官学校へと進学し、職業軍人になっていたと思います。そして、あるいは戦死していたかもしれず、たとえ生き延びたとしても、戦後は、幼い頃からの軍人としての教育のため、硬直した思想の持主となり、その後の小生の人生は現在とは大変違ったものになったと思います。

 このように大手術を受けた経験から、小生は自分の手で、ひとの病気を治してやろうと思うようになり、医科大学を卒業すると、直ちに迷うことなく、大学の外科の教室に入局しました。

 昭和30年の春でした。当時は医師は少なく、長時間にわたる手術の助手の仕事をしばしばやらされ、だんだん小生の足は耐えられなくなりました。そして遂に前記の右大腿骨々隋炎が再発しました。しかし幸いこの時は各種の抗生物質が使える時代になっていましたので、再手術をしないで治りました。しかしその結果、もうこれ以上足を酷使する外科医の仕事を続けることは出来ないと思い知らされました。

 そして、止を得ず、外科医となることをあきらめ、がんの病理学の研究に従事することになりました。

 そのことがまた思いがけない幸せな日々になりました。それは、日本におけるがん研究の第一人者であった、優れた病理学者に指導を受けるようになり、恵まれた環境において研究をすることが出来たからです。

 しかし、それは決して意図して、そのようになったのではなく、偶然の結果だったのです。むしろ当時小生はその指導を受けた教授の偉大さについては、あまり知らず、誘いがあって、それに乗っただけだったのです。若し、大腿骨の病気がなかったら、さらに外科医としての仕事を続けていたに違いないと思います。

 この研究生活を5年続けた頃、有名なカナダの研究所であるBanting−Best Instituteへの留学の話しがありました。インシュリンの発見で有名な研究所ですから大変魅力的な話しだったのです。しかし、その待遇は必じしも良くなく、しかも冬は厳寒の地で、そこへ単身赴任せねばならなかったのですが−。そんな寒い土地では、小生の足は耐えられないと思い、残念ですがお断りしました。

 ところが、翌年すばらしい話がありました。国際対がん連合(U.I.C.C)からEleanor Rosevelt基金を受け、ロンドンの高名な王立がん研究所であるChester Beathy Research Instituteに留学することになりました。その待遇は通常ではえられない程良いものでした。
巧まずして待った甲斐がありました。これも足の具合が悪かったために止むを得ず待ったことが幸いしたと云わざるを得ません。

 現在、足の手術を受けてから60年近くなりました。この間に数回、軽い再発が起りましたが、いずれも大事に到らずに今日まで来ました。

 現在思い出しても、小生の大腿骨は良く再生したと思わざるを得ません。古い孔子の教えに(孝経)“身体髪膚之を父母に受く、敢へて毀傷せざるは孝の始めなり”と云う云葉がありますが、小生の右大腿骨の多くは自分で再生したものですから、それを実行出来ない状態になったわけです。

 最後に残念なことを書かねばなりません。太平洋戦争の末期の昭和19年11月末に東京の空襲によりわが家と共に、大切に保管していた小生の左大腿骨は焼け出されて消失してしまいました。この骨こそは小生の守護り神とでも云うべき大切な物であったのですが−

−おわり−