| 1.ポツダム宣言受諾をめぐって
・日本の申し入れに対する米国の回答
1945 (昭和20)年8月10日午前7時、「ポツダム宣言」受諾に関する日本政府からの申し入れを知ったトルーマン大統領は、リーヒ統合参謀本部議長、バーンズ国務長官、スティムンスン陸軍長官、フォレスタイル海軍長官を午前9時に召集した。
日本政府から申し入れ「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、帝国は右宣言を受諾す」をみて、
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トールマン大統領「天皇を存続させながら日本の好戦性をなくすことが出来るだろうか。このように大きい『但し書き』を付したメッセージを、われわれが求める無条件降状の一類型とみなし得るのだろうか」と意見を求めた。 |
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スティムンスン陸軍長官「日本側から持ち出さなくても、われわれの方で天皇を存続させたいと思っていた」 |
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リーヒ統合参謀本部議長「天皇問題など今やわれわれがてにしようとしていう勝利を遅らせることに較べれば、小さなことである」 |
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フォレスタル海軍長官「われわれは肯定的返答をしてもよいと思う。ただ米国の意図と立場に完全に一致する言葉遣いをするよう留意すべきである」 |
大統領は、バーンズ国務長官にフォレスタルの語った線に沿って返書を起草するよう求めた。国務省に戻ったバーンズは、グルー国務次官の協力も断り、「陸海軍は戦争に倦んでいる、大統領も出来るだけ早く降伏させたいと思っている。」とバーンズは悩んだ。結局、国務省の極東スタッフのグルー、バランタイン、ドーマンと協議し、対日返書草案を書き上げた。
「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項実施のためその必要と認める措置をとる連合国最高司令官に従属する」「日本の最終的政治形態はポツダム宣言に従い、日本国民の自由に表明する意志により決定されるべきである。」午後2時の閣議で草案は承認され、直ちに英中ソ3国への同意を得べく打電された。翌日の早朝までに同意を取りつけ、11日正午、対日回答書は発信された。日本の申し入れ書を受理してより約30時間後であった。
・閣内武闘派の抵抗・無力化した指導層
12日早朝からバーンズ回答をめぐって、日本の最高戦争指導会議、閣議は陸軍を中心とするいわゆる武討派の猛反対にあって終日混乱が続いた。その夜、受諾をすすめる東郷外相のもとに、スウェーデン岡本公使から、バーンズ回答の背景を説明する電報が入った。天皇を認める米政府が反対派を意識した苦心の表現で日本にシグナルを送ってきたものであると外務省は了解した。
13日も朝から最高戦争指導会議、続いて閣議がもたれたが果てしない議論の繰り返しで合意にいたらなかった。14日午前10時50分、天皇の召集という異例の形で御前会議が開かれた。最高戦争指導会議と閣議の合同御前会議であり、両会議とも結論が出ていないため論議はなく、天皇の判断が語られた。
「反対意見はよく聞いた。私の考えは変わりない。これ以上戦争を続けることは無理だと考える。国体問題は、先方は好意を持っていると解釈する。…要は国民全体の信念と覚悟の問題であるから、これを受諾してよろしいと考える。みなもそう考えてもらいたい」「この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼び掛けることがよければ私はいつでもマイクの前に立つ。
……どうか私の心持ちをよく理解して陸海軍大臣は共に努力し、よく治まるようにしてもらいたい」(下村海南『終戦記』鎌倉文庫1948−五百旗頭真『米国の日本占領政策』上下 中央公論社1985)
1945(昭和20)年8月14日午後1時、閣議開催。このときバーンズ回答受諾に反対する者はなかった。詔書に閣僚全員が副署した。もちろん阿南陸軍大臣の名もあった。直ちに受諾する旨が打電され、大日本帝国は連合国に降伏した。
日本国民のほとんどは、戦況を含め、沖縄のことも、原爆のことも、その真実を知らされていなかった。
・敗戦を国民に知らせた日・8月15日
1945(昭和20)年8月15日正午、時報と同時に、いわゆる「玉音放送」が、日本列島津々浦々に流された。国民は朝からの報道で天皇陛下が直接詔書を放送されるのを拝聴するように促されていた。翌日の新聞には、家庭や職場で一同起立し頭を垂れた姿勢で聞いたいる姿が報ぜられ、二重橋前には土下座をして平伏す人々の写真も掲載された。
詔書では「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ」と、日本政府がポツダム宣言受諾に当たっての条件としていた「国体の護持」が認められたことを述べていた。この放送と同時に、鈴木貫太郎内閣は総辞職した。この時、文部大臣太田耕造は、文部省を去るにあたって次のような訓示をしている。「未曾有の国難を招いたのは、一身をなげうって忠誠を尽くし、『皇国教学の神髄』を発揮するという点で、不十分であったからである。これを反省し病根を心に刻んで、今後『臣子たるの責務』の遂行を誓い、教師・学徒とも『国体護持の一念』に徹すべし。(後略)」と述べた。文部省は翌16日、農業・運輸・通信従事者を除く「学徒動員」の解除を通達した。
・皇族内閣の成立と連合国軍の進駐
8月17日(金)東久邇内閣成立。この内閣は、国体護持と天皇を戦犯にしないために登場した。この日天皇は陸海軍軍人に対し「国家永年の礎のため終戦の決定に従う」ようにとの勅語を出した。14日から15日払暁にかけての軍隊による騒乱は収められたとはいえ、国内外の軍人による反乱が心配され、勅語が必要だったのである。その一方で政府は一般国民の反乱も恐れていた。
そのため治安維持法の体制を維持し、それによる取り締まりの方針を決めた。その上で首相は、この戦争の責任に関し「一億総懺悔」として国民すべてで戦争責任を負うべきと述べて、天皇の戦争責任の回避に懸命であった。何れにしても占領軍は来る。その受け入れについて、政府は19日に、マニラへ河辺虎四郎以下の軍関係者を降伏使として派遣し、連合軍側と日本占領、降伏調印の段取りなどの折衝を行い、他方外務省外局に「終戦連絡中央事務局」(長官岡崎勝男)を設置して連合軍の占領政策施行に関しての折衝を行うなど、占領軍受け入れに奔走した。
また別にこんなこともしていた。それは内閣成立の翌日、内務省は地方長官に対して、占領軍向けの慰安施設の設置を指令しているのだった。戦中に自分たちがやってきたことを裏付けているのではないのだろうか。
・占領軍の日本進駐
8月28日、連合国軍の先遣隊が厚木飛行場に降り立ち、まず日本本土の土を踏んだ。続いてその2日後、マッカーサーが例のコーンパイプをくわえて厚木飛行場に降り立った。この時マッカーサーはシャツ姿でピストルの1丁も持たない丸腰であった。まだ降伏の調印式前であり、武装解除されない30万の日本軍がいるというのにである。マッカーサーは丸腰で日本に乗り込むことによる政治的効果に賭けたのである。この賭けは成功し、日本人および日本軍の反乱・抵抗は一切起こらなかった。こうして連合国最高高司令官マッカーサーはGHQ(連合国最高司令官総司令部)に陣取っての執務が始まるのだった。
9月5日には、降伏文書の調印が行われ、15日にGHQ本部が東京日比谷に設置された(それまで横浜におかれていた)。
政府はひとまず無事占領軍を受け入れたものの、天皇の地位、戦犯問題に揺れていた。マッカーサーは9日、日本管理方式について声明を発した。「間接統治とし、自由主義の助長をはかる」というものであった。続いて11日、東条英機等39人の戦犯逮捕を指令した。そこに天皇の名はなかった。そして27日天皇のマッカーサー訪問が行われた。一斉に各紙はこの訪問写真を報じた。情報局(日本政府の)はこれを不敬罪として発売禁止を命じた。GHQはすぐその措置を中止させた。
・天皇のマッカーサー訪問で何が語られたのか
マッカーサーの考え「日本への進駐がスムーズに進んだのは、天皇の協力が大きいと思う」(河原敏明『天皇裕仁の昭和史』)
天皇の発言「私は、国民が戦争遂行に当たって政治・軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う」(マークゲイン『マッカーサー回想記』--この本は内容に疑問が多いとも言われている。
マッカーサー発言「占領軍の進駐がこと無く終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことが多い、どうかよろしくお願いしたい」(藤田尚徳『侍従長の回想』)
マッカーサーは天皇を「20個師団に値する」とも言っていたという。
ともあれ天皇は戦犯から免れた。少なくともそのお墨付きを得て、翌年(1946年)の年頭には「神格化否定の詔書」(人間天皇をアピール)を発し、2月から全国巡幸が行われ、土下座して迎える人々、また万歳の歓呼の中に各地で迎えられたことが報ぜられ、万世一系の天皇をいただく国体は護持されたのだということを、戦後の多くの人々の胸に刻み込まれた。
2.戦後教育は“すみぬり教科書”から始まった
・変わり身の早かった文部省
東久邇内閣の文部大臣には、前田多門が就任した。前田は新渡部稲造に私淑し、新渡部の示唆で公民教育・社会教育の重要性を認識していた。また、ILOに関係し数年の欧米生活があり、朝日新聞の論説委員も経験するなど国際的視野をもったリベラリストであった。文部大臣就任直後に前田文相は青少年向けの放送で、科学教育の重要性を述べ、学校にあっては、先生の云うことを絶対的なものと考えず、自ら考え、知恵を磨くことを訴えて、これからの教育のあり方を示唆した。しかし、このときそれと同時に、教育勅語の再読を勧めてもいた。
8月28日、9月中旬までに全学校の授業再開を文部省は通牒した。
9月15日文部省は、授業再開に当たって、これからの教育の方針を示す必要を認識し(まだ占領軍の政策が出る前)、『新日本建設の教育方針」を公表した。この方針では、国体護持、平和国家建設、科学的思考力の養成の3点を基本方針とし、科学教育、教科書の問題などの学校教育のことから、社会教育、青少年団体のこと、宗教の問題、そして文部省自身の機構に関することまでを含んだ改革の方向を指し示していた。
10月15日文部省は、この方針を全国の先生に徹底させる必要をがあるとの認識から、「新教育方針中央講習会」を開催している。確かに昨日まで「鬼畜米英」「出てこいニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」と教えていた先生が、授業再開してどう教えるのかを示す必要に迫られていたと言える。それと同時にこれは、軍国教育の指導、指令を出してきた文部省自身が、今後どうするかの答を出したものだということも言えるものであった。
文部省は授業が再開された20日、「中等学校以下の教科書より戦時教材削除」を通牒した。いわゆる「墨塗り教科書」の出現である。ここにも当時の文部省の考え方が示されていた。つまり、墨を塗るように指示したのは、戦時教材ということで、戦争賛美、鬼畜米英的なものの削除は指示したが、「国体護持」の立場から神国日本、皇国史観に関する部分は残されたままだった。
ともかく9月から戦後の学校教育がスタートした。
3.米国教育使節団をめぐって
・GHQによる民主化指令
10月4日GHQは「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃」の覚え書きを発した。ここでは、天皇に対する自由討議、政治犯の釈放、思想警察全廃、内相、特高警察全員の罷免、統制法規の廃止などが明記されていた。驚いたのは東久邇内閣であった。翌日、同覚え書きは実行できずと総辞職してしまった。国体は護持され、天皇も安泰であった。皇族内閣はその目的を果たしての退場なのだろうか。
9日、幣原喜重郎内閣が成立した。この内閣には、外務大臣に吉田茂、厚生大臣に芦田均が入り、文部大臣には前田多門が留任していた。
10日には、治安維持法により投獄されていた政治犯約500人の釈放が行われた。
11日、マッカーサーは、新任の挨拶に来た首相に、憲法の自由主義化と人権確保の5大改革を口頭で要求した。5大改革は、婦人解放、労働組合結成の奨励、学校教育の民主化、秘密審問司法制度の撤廃、経済機構の民主化であった。
直ちに政府は松本丞治を主任とし憲法改正研究を開始し、治安警察法を廃止し、衆議院議員選挙法改正案を国会に提出した。選挙法は12月、婦人参政権、大選挙区制、制限連記制を内容として改正公布された。こうした中で総選挙に備えて12月頃までには、主な政党が結成された。
11/2 日本社会党(書記長 片山哲)
11/9 日本自由党(総裁 鳩山一郎)
11/16 日本進歩党(幹事長 鶴見祐輔)
12/18 日本協同党(委員長 山本実彦)
・軍国主義・超国家主義者追放、教育民主化に動くGHQ
新日本建設の教育指針を出し、幣原内閣の文部大臣に留任した前田は、新教育指針中央講習会を開きその徹底をはかるとともに、省内人事の刷新も図り、学校教育局長に法学者の田中耕太郎、社会教育局長に朝日新聞論説の関口泰、科学教育局長に東工大教授の山崎匡輔等を据えた。
一方GHQは、幣原首相へ教育の民主化を要求すると同時に、10月18日には、本国に教育使節団の派遣を要請し、22日には「日本教育制度に対する管理政策」を指令した。そこでは、軍国主義的超国家主義的教育の禁止が主眼とされていた。これに基づいて30日教育関係の軍国主義者、超国家主義者の追放とその調査機関の設置などを指令した。
11月、文部省は新しい「国史」の教科書編纂を始めた。東京女高師教授から文部省監修官になった豊田武を中心にまず小学校の教科書編纂に着手した。しかしこの教科書は、なお神話を重視しているとしてCIEから否認された。
この11月GHQは、国家神道・神社神道に対する政府の保証・支援・監督・弘布などの指令を出したが、この中で軍国主義的・超国家主義的イデオロギーについての規定を行っている。それには、「特別な家系・血統あるいは起源をもつという理由で、日本の天皇は他国の元首に優れ、また、日本国民は他国に優れるとする主義、日本列島は神が創造したという起源を有するので他国に優れるとする主義。その他、日本国民を欺き侵略戦争へ駆り出させ、また他国民との論争の解決手段として武力の行使を謳歌するような主義。」(山住正己『日本教育小史』岩波新書)と記されていた。
そして年末にGHQは、「修身・日本歴史・地理の授業停止と教科書回収」の覚書を発した。これは、教育の中で、軍国主義・超国家主義を鼓舞してきた根元の教科書がこれであるとの判断があったのだろう。
年が明けた1946(昭和21)年、年頭に天皇の人間宣言の詔書が出され、マッカーサーがそれに賛意を表明している。敗戦、占領軍進駐という波乱の5か月を送り新年を迎えたが、人々の上には大変な食糧難という死活問題が重くのしかかってきていた。こうした中、2月から天皇の全国巡幸が始まったのである。国民に、天皇制を根づかせるための重要行事であった。
4日にはGHQが、軍国主義者の公職追放、超国家主義団体の解散を指令し、13日には幣原内閣改造がこの公職追放との関連で行われ、文部大臣に一高校長の安倍能成が就任した。そして3月にかけ憲法改正への動きが活発になっていった。
・「日本教育家の委員会」
1946(昭和21)年1月9日、GHQは、米国教育使節団に協力する「日本教育家の委員会」の設置を指令した。文部省は人選を進め2月7日、29名からなる「日本教育家の委員会」が発足した。主な委員名をあげると、南原繁(東京帝大総長)・鳥養利三郎(京都帝大総長)・務台理作(文理大学長)・天野貞祐(一高校長)・星野あい(津田塾長)・小宮豊隆(東京音大学長)・沢登哲一(都立5中校長)・有賀三二(東京小平青年学校長)・河原泰作(枢密顧問官)・柳宗悦(日本民芸館長)・長谷川如是閑(作家)、文部省から山崎匡輔(次官)・田中耕太郎(学校教育局長)・関口泰(社会教育局長)等であった。
「日本教育家の委員会」は、発足と同時に、これからの教育改革についての見解を、「米国の教育使節団に協力すべき日本側教育家委員会の報告書」としてまとめる作業に入った。現在のところこの報告書は幻のものとなっている。使節団と文部省に提出されたはずのものであるが…
報告書としてまとめる迄の過程で出されたいろいろな意見は、各種の形で残されている。議論は当然ながら広く教育全般におよんでいる。
| ○ |
教育勅語についての議論もあった。
「時勢の推移につれ国民の今後の精神生活の指針たるに適せざるものがある」
「国民教育の新方針並びに国民の精神生活の新方針を明示したまう如き詔書を賜りたきこと」(「新教育勅語」の発布を願いたい) |
| ○ |
教権の確立、教育権の独立に関する意見
「学校に対する文部省および地方庁の監督権の縮小」
「教育行政については、都道府県以下に教育委員会を設置、公選と教員の互選、少数の教育行政官(10人中2人以下)で構成」
「教科書の国定制の廃止」 |
| ○ |
学校体系に関する意見
「複雑な学校体系と複線型を廃して、六三三四(第1案)、六二四四(第2案) 第1案を主張 |
| ○ |
設立されるべき教員協会または教育者連盟に関する意見
「教員の自主的組織として労働組合より穏健な組織を提案」 |
| ○ |
教育方法問題に関する意見 内容は多岐にわたっている
「学校設備の貧弱、教科書重視教育の弊害、学習における生徒の自発が尊重されない、学級の児童数が過多の弊害、教科課程の画一、試験による成績順位と入学資格の弊害、教師の過労問題等々」 |
・米国教育使節団の来日
1946(昭和21)年3月5日、米国教育使節団が来日した。団長イリノイ大学総長内定者でニューヨーク州教育長官ジョージ.D.ストッダード以下27名(内女性4名、黒人1名)であった。8日には日米両国委員による総会が開かれた。開会に当たって安倍能成文部大臣が歓迎の挨拶を行なった。
「…敢えて失礼を申すれば、よき戦勝国たり戦勝国民たることもなかなか困難であります。我々は戦敗国として卑屈ならざらん事を欲するとともに、貴国が戦勝国として無用に驕傲ならざるを信ずるものであります。」と述べ、日本が征服者として相手の国民性を無視して「朝鮮や支那に臨んだことが、日本の失敗であった」と反省の意を述べ、戦勝国としての「この位置が、アメリカ的あるいは西洋的特殊性を簡単に強制するにいたらざらん事を期待するのは決して不遜な願いではないと信じます。しかし失礼ですが、戦勝国民が無意識的、意識的に侵しやすい過失でありまして、かくしては、日本の地に着いた日本人を心底から動かす本当の教育も出来ず、また文化も成長しがたいと思うのであります。」と主張し、「新来の客のフレッシュな感覚」をもった「諸君の知恵と経験とに信頼し、冷静な客観的態度を以てわが教育制度やその内容、その実行方法を検討し、永遠の使命を果たすとともに現実の要求を充たすべき教育の実質的改善の端緒を開くことに貢献したい。」と締め括った。(安倍能成『戦中戦後』−神田文人『昭和の歴史8「占領と民主主義」』)
この挨拶は自由主義哲学者の堂々たる発言として、使節団にも好印象を与えたといわれている。こうして、「日本教育家の委員会」の作成した先の報告書は使節団に提出された。
米国教育使節団は活動を終え3月30日総司令部に報告書を提出した。報告書はその序論で「もしも我々が、日本人の民主主義的可能性に信を置かず、彼らが健全な文化を再建する能力のあることを信じなかったら、我々はこの国へやってこなかったであろう。(中略)我々は画一ということを信奉するものではない。我々は教育者として個人差や、創意や、自発性に対して絶えず心を配っている。これが民主主義の精神である。我々がわが国の制度をうわべだけを真似たものを見せられて、よい気になったりはしない。進歩発達と社会進化を信ずればこそ、希望と清新な力の源として世界の至る所に存在する、種々な文化を歓迎するのである。」と述べている。これは日本の教育改革は、日本の国民の自発性に基づいて日本の国民性と文化的伝統に根ざすものでなければならないという原則を述べていた。そして、日本の教育制度が「高度に中央集権化された19世紀の型に基づいたもの」と指摘し、これを推進した文部省の官僚主義的統制を批判し、そのうえでの今後の日本の教育の在り方についての具体論では、日本教育者の委員会の意見を反映したものとなっていた。
「教育は個人を、社会の責任ある協力的成員とするようにすべきもの」との前提で、修身のとらえ直し、地理・歴史教科書の書きかえ、保健衛生・体育・職業教育等の必要性を強調した。具体的提案では、六三三四制の支持、男女共学が望ましい、中央官庁が教授の内容・方法や教科書を規定すべきでない等を述べ、教権の確立を強調していた。さらに、公選制教育委員会、教科書出版の自由化、教科書採用における教師の権限確立など制度問題も提起していた。なお、教育勅語については、その扱い方について問題にしていたが、内容については触れていなかった。
4.戦後の新教育のスタート
・日本国憲法誕生への道程
幣原喜重郎内閣が成立してすぐマッカーサーは、憲法の自由主義化を要求した(1945年10月)。政府は松本丞治を主任として憲法改正の研究を開始した。しかしその後一向に進展しない政府の動きに対して、年が明けて2月、マッカーサーはGHQ民生局に3原則(天皇は国家の首部、戦争放棄、封建制の撤廃)に基づく憲法草案の作成を指示したが、10日には早くも民生局の案は完成した。これにはそれだけの理由があった。米国は早くから日本の戦後統治についての研究をしており、日本の憲法学者についても調べており、占領と同時にそうした学者へのコンタクトを取っていた。高野岩三郎、鈴木安蔵らであった。彼らはその米国の動きに答え、戦後すぐ憲法研究会を立ち上げ新憲法の草案づくりを始めた。そして12月27日に憲法研究会が憲法草案要綱を発表し、翌28日には高山岩三郎が改正憲法私案を雑誌に発表した。GHQ民生局はまさにこれを下敷きとして1週間でGHQ案を完成したのだった。
政府は8日、憲法改正要綱(松本丞治私案を宮沢俊義が要綱化し松本加筆)をGHQに提出した。これに対しGHQはこれを拒否して、同時にGHQ案を政府に手交した。政府は22日閣議でGHQ案の受け入れを決定し、3月2日に政府草案を作成し4日GHQに提出した。これにつき両者協議が行なわれ、6日、政府の憲法改正草案要綱を発表。4月17日に憲法改正草案正文(日本国憲法草案)の発表となった。
本来であればここで国会審議となるはずであるが。10日に行なわれた新選挙法による総選挙の結果で、4月22日幣原喜重郎内閣は総辞職、以後1か月の政治空白が生まれてしまった。選挙の結果は、自由党141、進歩党94、
社会党93、協同党14、共産党5、諸派38、無所属81、計466(有権者総数3688万、投票率72.1%)絶対多数党がないことと同時に、当時食料危機が深刻化している社会事情も重なり、政治空白1か月を生んだ。結局、5月22日、第1時吉田内閣成立し、6月20日、憲法改正案は国会に提出され、11月3日日本国憲法公布となったのである。憲法審議の経過は割愛するが、6月25日の吉田首相の衆議院での発言「第9条は自衛権の発動としての戦争も交戦権も放棄したものである」を記しておこう。
・文部省『新教育指針』を発行
米国教育使節団が報告書を提出したのが3月30日、その直後からの政治空白などで、ほとんど止まってしまっていたが、5月15日、文部省は「新教育指針第1部前編 新日本建設の根本問題」を発行(全体は第1部前・後編で13章、第2部4章からなり、47・2了)した。これは前年の4大教育指令(45.10.22 「日本教育制度に対する管理政策に関する件」)を受けたもので、日本の現状を明らかにし、「軍国主義及び極端な国家主義の除去」「人間性、人格・個性の尊重」を強調していた。そして一方で文部省はこの指針についてこんな注釈も付けていた。
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教育者に押しつけようとするものではない。 |
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教育者はこれを教科書として覚え込む必要はない。 |
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教育者はこれを手がかりに、自由に考え、批判し、自ら新教育の目当てを見出だす。
つまり、上意下達、上から押しつけるものではないことをこの方針は強調していた。 |
この指針は、先の指令のあと、文部省とCIEとで準備がすすめられていた。文部省は東京文理大教授の石山修平を在席のママ文部省教科書局第2編集課長として新教育指針のまとめ役とし、東京帝国大学教授金子武蔵に執筆を依頼し、CIEバーナード大尉と相談・検討を進めまとめ上げていったのである。
この指針では、「国体の本義」「臣民の道」「国史概説」等について、「国体を自覚し国史を尊重し、国民性の長所を生かす」限りでは正しかったが、「軍国主義者や極端な国家主義者」によって誤られてしまった。として、国体、臣民、皇国史観等は評価する立場を取っていた。
このあとすぐ文部省は、『くにのあゆみ』等新しい教科書の作製に入るが、
教科書に関してはあとでまとめて記すこととして、「新教育指針」以後の教育関係の動きについてみることとする。
・日本教育家の委員会は教育刷新委員会(刷新委)へ
文部省は「新教育指針」を発表したものの、米国教育使節団の報告書に関しては依然手付かずのままであった。1946(昭和21)年5月吉田内閣の文部大臣となった田中耕太郎は、日本国憲法の国会審議が始まると、8月10日に教育刷新委員会を設置した。この委員会は総理大臣所管とし、委員長安倍能成、副委員長南原繁でスタートした。委員には、日本教育家の委員会から20名が横滑りし、新たに芦田均、高橋誠一郎(慶応塾長代理)、菊地隆道(都立1中校長)、羽渓了諦(竜谷大学長)、森戸辰男、渡辺鉄蔵(のち東宝社長)、島田耕一(早稲田大学総長)ら18名が加わった。
米国教育使節団の受け入れをした日本教育家の委員会メンバーが大半を占めていたので、使節団が提出した報告書に関しては十分承知していた。刷新委はすぐに活動を開始し、11月29日には、教育基本法制定の必要を決議した。続いて12月27日には、義務教育の9年制と教育委員会の設置などを建議した。しかも新年度からの実施を目指しているものだった。
こうした中で、刷新委は設立から3か月の間に戦後教育の中核的な課題の実施に取り組んだのだが、使節団に渡した日本側の意見書の審議にも出ていた教育勅語の問題がこの時の審議でも行われていた。このへんの事情について、神田文人は「教育基本法の制定は、教育刷新委員会で検討された。まず、第1特別委員会(羽渓主査)で文部省と協議のうえ、新勅語奏請が否決され、続いて、それにかわる『教育基本理念』が検討され、教育基本法制定の建議が採択された。それを受け、文部省が起草し、法律として制定したのであるが、憲法と同様、前文のある珍しいものであった。」(『昭和の歴史』8小学館)
また、大江志乃夫は教育勅語の扱いについて、「…教育刷新委員会でも問題となった。委員会での討議の内容を読んでみると、自由主義者とはいいながら、明治人の教育勅語にたいする愛着には驚くべきものがある。それは、これら明治生まれの知識人の教養を形づくってきた支柱としての儒教の影響の大きさを示すものであり、国家との一体感のなかに誇りを見出だしてきたエリートの自負心を物語るものであろう。…意見は3分された、一つは”勅語は日本人の道徳の規範として実に立派なもので、廃める必要は全然ない”という天野貞祐らの主張で、田中耕太郎文相もこの立場にあった。第二は、新しい教育勅語を出すという主張で、安倍能成らがこの立場に立ち、南原繁もこの考えを否定しなかった。第三は、新教育理念は勅語ではなく、国会で決定すべきであるという主張で、森戸辰男や務台理作らが、この立場を取った。(『日本の歴史』13小学館)
刷新委で勅語方式が否決されたとき、10月9日、文部省は、国民学校の儀式行事から君が代合唱、御真影奉拝、教育勅語奉読の規定を削除した。
1947(昭和22)年文部省は、新年度からの新しい教育制度の実施を前にした3月20日「学習指導要領一般編(試案)」を刊行した。この指導要領には表題に「試案」が付記され、その後書きには、「学習指導要領は、児童や生徒の学習の指導にあたる教師を助けるために書かれたもので、…教師は常に創意とくふうをもって地域の社会の事情や、児童・生徒の興味、能力、必要に応じて、これを創造的に用いねばならぬ。」とあった。以後、12月までに各教科編を刊行した。
こうして、1947(昭和22)年3月31日 教育基本法・学校教育法が公布され、4月1日より、6・3・3・4の新教育制度となるが、まずこの年は新制度による小学校と中学校が発足した(高校は翌年、大学はその翌年)。しかし、決定的な予算不足の中での発足で、特に中学校の校舎建設はままならない情況であった(初年度文部省試算で73億円が現実には追加を含め58億円)。
学校制度が半ば強行的に新発足したこの年、政治の世界も大ゆれしている。
年頭の吉田首相による労働運動指導者に対する「不逞のやから」発言、マッカーサーによる2・1スト中止命令、3月31日衆議院解散、4月25日総選挙(社会143、自由131、民主124、国民協同31)、5月3日日本国憲法施行、6月1日片山内閣成立(文部大臣森戸辰男)と続いた。
文部大臣森戸辰男は、刷新委で教育勅語問題が論議されたとき、「個々の徳目において教育勅語を貫いている精神が明治国家の建設の時代は別として、今の民主国家の建設においては、根本精神が全くそぐわんものである」「重要な点は国会が決定しなければなら。勅語で決定せらるべきものではない」と主張した。そして、就任2日後の3日「学校における宮城遥拝、天皇陛下万歳、天皇の神格化的表現の停止」などにつき文部省通達を出した。
12月26日刷新委では、「文部省解体、文化省設置など教育行政民主化」を決議した。
5.刷新委の新教育は、国民のものとなったか
・墨塗り以後の教科書
1946(昭和21)年、米国教育使節団が3月31日に総司令部に報告書を提出して帰国したあと、文部省は『新教育指針』を発行し、5月17日には10人の日本史家を召集して日本史の教科書執筆を依頼した。
国民学校用『くにのあゆみ』家永三郎、森末義彰、岡田章雄、大久保利謙
中学校用 『日本の歴史』 関 晃、森末義彰、伊東多三郎、小西四郎
師範学校用『日本歴史』 竹内理三、新城常三郎、箭内健次
この執筆の間の6月29日、GHQは地理授業の再開を許可、10月には日本史も再開を許可した。これを受けてまず、『くにのあゆみ』上下巻が日本書籍から発行された。(著作は文部省、発行は民間教科書会社)
本格的な教科書が供給されるのは新教育がスタートする昭和22年度からでそれまでは、新聞紙に印刷し、16ページを折り畳んだだけの物が供給されたにすぎなかった。本格的教科書といっても、『くにのあゆみ』と同じように文部省の著作であった。しかし、1947(昭和22)年の新しい学校教育法21条には、「小学校においては、監督庁の検定若しくは認可を経た教科用図書又は監督庁において著作権を有する教科用図書を使用しなければならない」としていることもあり、教科書の検定制度確立が急がれた。
1948(昭和23)年2月、「教科用図書検定要領」が告示され、初めての教科書検定の出願受け付けが始められた。この時、584点の出願があったが、合格は
わずか90点であり、実際に使用されたのは65点であった。この数字がどういうことを示しているのかいま仔細は分からないが、おそらく準備の整わないうちの急な開始で教科書に対する認識の不徹底などがあったのかもしれない。そしてすぐこれで検定教科書の使用開始というわけではなく、ここで合格した教科書は8月の教科書展示会に出して採択されなければならないわけで、実際に生徒の手にわたるのは翌年の4月なのである。ともかくこれで検定教科諸制度が始まったが、この時の教科書展示会にはまだ文部省の著作教科書も並んでいたのである。
この第1回検定が趣旨不徹底といったが、2月受け付けの後の4月に「教科用図書検定規則」が出され、7月に「教科書の発行に関する臨時措置法」が公布され、ようやく教科書の製造供給制度を規定するという具合に、制度はつけ焼刃的に進行していった。
そこにもう一つの問題があった。それは検定をだれがするかの問題だった。学校教育法にいう「監督庁」の検定の監督庁はどこなのかである。刷新委の建議によりこの7月に「教育委員会法」が公布されたが、そこには教科書の検定は教育委員会で行なうとされていた。しかしここに但し書きがあり「用紙割当制が廃止されるまで」とあった。それで暫定措置として文部大臣がその権限を保証された(文部省が用紙の割当を受けていた)。そしてこの暫定措置は、その後用紙問題が解消しても、はずされずに1953(昭和28)年迄続けられ、この年の学校教育法、教育委員会法一部改正によって、暫定措置の条文が削除され、検定の権限は文部大臣に属すこととなった。以後今日に及んでいる。
・教育委員会の設置と教育委員選挙
教育基本法・新学制をスタートさせ、1947(昭和22)年の年末には、文部省の解体、文化省設置など教育行政の民主化について決議した教育刷新委員会ではあったが、総理大臣所管ということから、時の政府の影響を受けることは否めなかった。
刷新委が文部省の解体を決議した翌年の1948(昭和23)年は、国際情勢では冷戦の激化を受け、占領軍の日本占領政策が転換をはじめ、年頭には米陸軍長官ロイヤルが「日本を共産主義に対する防壁にする」と演説し、暮れには岸信介らA級戦犯19名の釈放が行なわれた。
一方、国内では2月10日に片山内閣が社会党内の左右分裂で総辞職して、閣僚ほとんどそのまま芦田内閣となったが、その命運も10月迄で、昭和電工疑獄事件で総辞職、暮れには芦田が逮捕されるという事態になった。その間の7月にはポツダム政令201号「国家・地方公務員の団体交渉権と罷業権など認めず」が出され、これに基づいて国家公務員法が公布された。そして芦田内閣にかわって第2次吉田内閣が成立したが、少数与党であった吉田自由党は、12月に衆議院を解散した(なれ合い解散)。
1948(昭和23)年はこうした激変の年であったが、教育では4月に新制高等学校が発足し、先に述べたように教科書の検定制度もスタートした。
そしてまた、刷新委が1946年に決議したまま手付かずとなっていた教育委員会の設置が、7月15日教育委員会法公布でスタートし、10月5日第1回教育委員会選挙が実施された。
この教育委員会選挙に当たっては、選挙の直前にCIE教育課長が「教育委員は特定政党などの奉仕者ではない。日教組の教育委員会支配は望ましくない」との談話を行なっている。日教組の選挙へ向けての方針に対する牽制であろうが、その日教組自身は、「選挙は時期尚早である」との反対意見も強かった。この尚早という理由は、選挙単位が小さく保守系の地方ボスに握られるという考えからであった。
ここに見えてくるのは、虚位区委員会を日教組の影響下に置こうとするにはまだ時期尚早ということで、ここにも上意下達的な思考が見えるし、戦中の官僚的全体主義を引きずっているということも言えよう。地方に教育権を根付かせるための最も民主的な手法であるのが選挙ではなかろうか。
・教育改革と吉田茂首相
教育刷新委員会は1946(昭和21)年9月に総理大臣の所轄機関として設立されて以来、1952(昭和27)年11月までの5年数か月活動した。この間の政府は、第1次吉田内閣、片山内閣、芦田内閣、第2次吉田内閣、第3次吉田内閣で、吉田茂首相との関係が一番深い。その吉田茂が新教育制度実施をめぐって「理想と現実のはざまで」と題し次のように語っている。
農地改革と違って、教育改革はその成功が必ずしも明らかではない。占領軍は理想に燃えて教育改革を行ない、その理想主義はかなり多くの日本人の共感を呼び起こしたけれども、改革は日本の実情に合致しないところもあったからである。
占領軍は教育制度改革のため、1946(昭和21)年3月に教育使節団を日本に送り、やがてこの使節団は、人権尊重と教育の機会均等を中心原則とする勧告を行なった。それに呼応して、同年8月、日本政府は教育刷新委員会をつくり、この勧告案を参考にして教育の民主化についての審議を始めた。この教育刷新委員会を構成した委員たちは、概して勧告案を強く支持し、その年の終わりには6年の初等教育に続く3年の中学校を義務制にすることを定め、しかも、それを次の年から実施することを答申した。そしてこの答申は国民の情熱をかきたてた。
そして、教育改革に賛成する手紙が関係者たちにあてて、すなわち、文部省や教育刷新委員会や議会や占領軍にあてて送られた。それはほとんど異口同音に、「日本を復興させるものは教育以外にない。自分たちは戦争によって国を荒廃させ、何も子供に与えるものをもっていいが、せめて立派な教育だけはしてやりたい」という気持ちを伝えていた。さまざまな階層からの手紙であったので、きれいな字もきたない字もあったし文章の巧拙もあったが、内容は同一だった。食べるものもろくにない人々が、教育に関心を示したこれらの手紙は、関係者、とくに総司令部のアメリカ人たちを感激させた。そして彼らは、その理想主義の正しさに確信をもったのである。
疑いもなくそれは、日本人のよい面を表していた。日本人はきわめて実際的な国民でありながら、同時に、きわめて精神主義的な国民であるのでもある。それはとくに戦後のあの暗い時期において、目立っていた。一方では日々の生活を維持する努力が懸命につづけられていた。しかし他方では、日本を文化国家として再生することが説かれ、教育に関心が集まっていたのである。この態度は日本を復興させた素質であった。
しかしそれは、当時の財政事情の窮迫と戦災による多数の校舎に消失という事情を考えると、現実性を考慮しない計画のように思われた。われわれ政府関係者はこれを不可能と考え、中学校の義務制については3年間に、6・3・3・4制全体については、10年くらいの間に実施する意図であった。6・3制には、莫大な経費がいる。戦前日本の最盛期ですら、6年間の義務教育がやっとのことであった。戦時中、8年の義務教育制を法律の紙のうえでは定めたが、実際はできなかったのである。それを敗戦後9年の義務教育制にするとして、いったい財政の上からみて、これはできることなのだろうか。それでなくても、食うものにさえ事欠いているのに、国民にそんな負担をむやみやたらに強いられるものではない。当時、インフレは日1日と進行し、財政はまさに緊迫していたから、そのうえさらに義務教育を3年延長することはとうてい不可能であった。
私は、そこで、計画はよい、実現はゆっくりやるのがいい、という二元的な考えをもった。ところが、世論も関係者も、無理にもどんどん進むがよいという意見を出し始めた。もっともこれは、アメリカの占領軍行政官の若い人々の善意ではあるが、向こう見ずな意見も反映しており、またいわゆる、日本の進歩主義者のうちの便乗論者の意見も世論に反映しているためもあった。とにかく、いいことはいいのだ。しかしむやみに急いでは事を仕損じる。私はそういう考えでいた。専門家の田中耕太郎君や次官の山崎匡輔君も私と同じような考えで占領軍のせっかちなやり方に抗議したり、忠言をしたりしていたらしい。それには、ずいぶん苦労が多かったろうと思う。(後略)(吉田茂『激動の百年史−わが決断と奇跡の転換』)
・教育刷新委員会から中央教育審議会へ
1949(昭和24)年は、総選挙で年が明けた。この総選挙で吉田民主自由党は圧勝した(民自264、民主69、社会48、共産35、国協14)。選挙後吉田茂と民主党党首犬養健が会談し、長期安定政権を期すと共同声明を発し、2月16日第3次吉田内閣が成立した。この内閣は共同声明どおり52(昭27)年10月30日までの4年に及ぶ長期政権となった。そしてこの年は、4月団体等規制令公布、7月マッカーサー「日本は共産主義進出阻止の防壁」と声明、夏以降に三鷹・松川事件など謀略事件発生、南北朝鮮の緊迫のなか講和問題が俎上に登など、緊迫した政治情勢となっていた。
こうした中、新教育制度の最後、新制大学のスタートが、5月31日の国立大学設置法の公布で発足した。これと同時に文部省設置法が公布された。ここでは、文部行政権限を地方に委譲することと、指導助言機関となることが定められていたが、昨年末の教育刷新委員会の文部省解体は実現しなかった。そして吉田首相は6月17日、首相の私的諮問機関として文教審議会(安倍能成、鈴木文四郎、板倉卓三ら)をつくり、”教育勅語に代わる「教育宣言」の作成につき諮問”している。これは明らかに、教育基本法、新教育制度、文部省解体という教育刷新委員会の目指すこれからの日本の教育についての方向から、大きく舵を切り替えようとするものであった。
翌1950(昭和25)年(6月に朝鮮戦争始まる)になると、吉田首相は東大総長南原繁の全面講和論に対し「曲学阿世」と非難し、文部省は学校の祝日行事に国旗掲揚、君が代斉唱をすすめる天野文部大臣談話を通達したり、さらに天野文相は、全国教育長会議で、終身の復活と、国民実践要領の必要性を表明したりしている。
1951(昭和26)年(9月にサンフランシスコ平和条約調印)11月、天野文相は「国民実践要領」を発表した。そしてこの月、政令諮問委員会(占領下の政策を見直すための首相の私的諮問機関)を設け、すぐに「教育制度の改革に対する答申(普通教育偏重の是正、職業教育の強化、教育委員会委員の任命制を含む教育制度の改正)」を行なった。これに対し教育刷新委員会は、この政令諮問委員会の教育制度の改革に対する答申に反対すると同時に、首相のこの動きに、自ら幕を引く最後の建議を行なった。そこでは「民主的教育の完全実施と、広く国民文化の向上を図る」ことを求め、そのために文部省に恒常的な諮問機関として中央教育審議会をつくる必要を述べ、その委員には、日本学術会議、大学設置審議会、全国教育委員会委員連絡協議会などの団体が候補を推薦し、その中から文相が任命するとしていた。
1952(昭和27)年6月、刷新委の建議により、中央教育審議会(中教審)設置法が公布された。文相の諮問機関であった。そして委員の人選は刷新委の趣旨は無視され文部大臣の任命となっていた。このとき文相は岡野清毫、彼は戦後初の党人文相であった。三和銀行頭取から政界入りした人物であった。ここから今日に至まで、この中央教育審議会は存続している。今日見る日本の教育の姿をもたらしたのは、この中央教育審議会だといってよい。
・おわりに
1945(昭和20)年から1952(昭和27)年の7年、日本の教育の基礎が築かれたのだろうか? たしかに6・3制は残っている。だがその中身はどうだろう。考えてみると、占領軍は天皇制を利用して日本を平和と民主主主義の国とすることを上から押し込むという方針で臨んだ。
間接占領で旧政府の組織そのまま継続した文部省は、変わり身早く軍国主義を排し平和・民主主義の方針を打ち出し、しかも上意下達の旧来の強権でないことも強調した。リベラルな文化人を動員した教育刷新委員会も、教育の中身は上から教え込むものでなく現場から、教育を受けるみんなの創意工夫で育てるものといって、教育基本法をつくり、民選の委員による教育委員会を立ち上げた。だが結局そのどれれも、上意下達的な上から授けるものとなった。
日本の国民は、上からの指示に従うことになれていた。それが戦後は、平和であり文化的なことなので諸手をあげて賛成し、上からの指示のとうりに行動した。
指導要領にこれは試案でこの通りにしろというものではないと断り書きがあっても、教科書にこのまま教え込めばいいというものではないと後書きに書いてあっても、先生の創意工夫が大切ですといわれても、指導要領を鵜呑みにし、教科書会社のつくる教師用指導書を頼りにした授業が行われた。それが大半であった。
確かに教育権を国民の手にといっても、7年の歳月でつくりあげることは無理であろう。もう少し長い目で見る必要があったのだが、上意下達、中央集権、官僚主義というものだけが平和と民主主義に酔う人々の上に育っていってしまったような気がする。
この上に資本の原理、競争の原理を取り入れて……。
参考文献
| 山住正己 |
『日本教育小史 近・現代』岩波新書 |
| 坂本秀夫 |
『戦後民主主義と教育の再生』明石書店 |
| 海後宗臣他 |
『近現代日本の教育』東京書籍 |
| 金沢嘉市 |
『ある小学校長の回想』岩波新書 |
| 岩波新書編集部編 |
「戦後教育を語る・暉峻淑子」『戦後を語る』岩波新書 |
| 林 茂 |
『日本終戦史』上・下 読売新聞社 |
| 下村海南 |
『終戦秘史』講談社学術文庫 |
| 江藤淳 |
『終戦工作の記録』講談社文庫 |
| 相良竜助 |
「占領から講和へ」『日本ドキュメント昭和史』6平凡社 |
| 吉田茂 |
『激動の百年史』白川書院 |
| 五百旗頭真 |
『米国の日本占領政策』上・下 中央公論社 |
| 吉田裕 |
『昭和天皇の終戦史』岩波新書 |
| 河原敏明 |
『天皇裕仁の昭和史』文春文庫 |
| 児島襄 |
『天皇』文春文庫 |
| 藤原彰他 |
『天皇の昭和史』新日本出版社 |
| 大江志乃夫 |
「戦後変革」『日本の歴史』31巻 小学館 |
| 神田文人 |
「占領と民主主義」『昭和の歴史』8巻 小学館 |

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