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健康づくりを骨から始めましょう
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2月
その1 大利 貴彦 私の健康法
その2 吉田 清純 不健康に鈍感になる
   
五十音順

その1 私の健康法    〜大利 貴彦〜

大利氏近影おおり たかひこ

昭和9年11月、高知県生まれ、昭和33年、大学を卒業して、長銀に入社、平 成10年6月、サラリーマン生活を卒業して、第二の人生に入り、アイヌ、アメリカ ・ インディアンなど少数民族・被圧迫民族の歴史の調査・小冊子の作成と、それに絡 ん だ国内・国外の旅行、そして、旅行した先の油絵の作成を三本柱とした生活を営 む。
 写真は、今年1月18日、八十八ヶ所巡礼で、打ち止めした高知県の第32番禪 師峰寺にて。

 健康法としては、私は、ここ数年間にわたり、歩く旅行を趣味としており、国内では、 出来るだけ地方のバスの利用をしても、その地元バスの時間の間隙を縫って、歩くのを趣味としている。

 例えば、北海道の様似から襟裳岬を経由して、広尾町、帯広市に抜ける時も、バスの間隔の長い間は徒歩で歩き、男鹿半島に行っても、突端の入道崎に行って帰ってくる間に、 地元のバスの繋の間を歩いたり、丹後半島では、豊岡市から日本海沿岸を通って、経ヶ岬を経由して天橋立に抜ける時も、地元のバスを乗り継ぎ乗り継ぎをしながら、歩いた。

 また、熊野古道については、当初から歩きを目的として、新宮の熊野速玉大社から始まって、王子を順番に詣でながら、熊野那智大社(但し、日程の都合から那智から那智大社までタクシー)を経由し、熊野本宮大社を詣で、さらに田辺市に抜けるべく、近露王子まで辿りついたが、ここで、3泊4日の強行軍が祟って、足が言うことをきかなくなって、バスで帰って来ざるを得なくなった。

大利氏近影 現在は、八十八ヶ所の四国巡礼1440キロを、一切歩き通す方針で、まず、高野山を、 麓の真田庵で有名な九度山町から町石道を辿って、高野山まで歩き、奥の院の大師御廟を詣でた後、徳島の第一番札所霊山寺から、現在は、室戸岬を回って、25番札所津照寺まで来た所で、打ち止めとなっており、近々中に再開しようと思っている。ただ、この間、足にマメが出来たり、足の爪を何回もはがしたりして、計画の途中で、何回か打ち止めして帰ってきている。

 さて、再開に当たっても、足腰の鍛えが必要で、ここ10数年来、朝の6時30分からのテレビ体操は欠かしたことがなく、加えて、外に出て歩く機会のないのを補うために、足のクルブシに、日中、常時、片足1.5キロの砂袋を着けて、家の中や、近所で用を足すときも、歩くことにしている。そして、この夏には、準備として、箱根湯本から箱根や金時山まで歩いての登山を、数回、訓練して来た。

 また、昔から、外出では、極力、電車の座席に座らないことにし、エスカレーターがあっても、階段を使うことにしていたが、最近は、若干、それは崩れて、エスカレーターに移行しつつあるが、それでも、エスカレーターで歩くことにしている。

 以上、大した健康法でもありませんが、日頃の私の歩きを紹介しました。

その1その2

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その2 不健康に鈍感になる 〜吉田 清純〜

吉田氏近影よしだ きよずみ

1962年東京都生まれ。
1986年大学卒業と共に株式会社リクルート入社、企業広告、大学広告の制作に携わる。
1996年同社退社、株式会社アーデント・ウィッシュにて熟年情報誌「はいから」編集長に就任。
2001年同社退社。
現在は、有限会社イプダワークスにて、エディター、ライターとして広告制作及び雑誌編集に携わる。

<健康に敏感であることは、健康的なことなのか?>
 例えばインターネット。健康という文字をキーワードに検索をすると、体力づくり、健 康補助、ダイエット、禁煙・禁酒、粗食、健康グッズ…、などありとあらゆる健康促進の ための情報にいとも簡単に出会うことができる。

これはいったい何を意味するのか?
 必要とされない情報は、提供されない。こうした市場の原理から察すると、多くの人々の 関心が健康に向けられているようである。この国のみならず、多くの先進諸国の人々は、 健康を得る、または維持することにとても敏感なようなのだ。
 もちろん私自身も健康に全く無関心ということではないし、多くの人々にとっても健康は、 何ごとに代えがたい、財産の一つであることは間違いない。
 しかし、私の経験をふまえた上で、最近ふと思うことがある。果たして健康に敏感である ことが、本当に健康を維持するために必要不可欠なのかと。


<度重なる定期検診のD判定が、健康体質改善へのきっかけとなる。>
 私事で誠に恐縮ではあるが、かく言う私もかつてはそれなりに(実はかなり)、健康に敏感であった時期がある。そのきっかけは、サラリーマン時代に受けた健康診断である。
 深夜に及ぶ残業を重ねた結果の慢性的な睡眠不足、午前12時を過ぎてからの飲食が主原因と思われる肥満、日に40本を超える喫煙、それはまさに不摂生を極めたかのような生活だ った。毎年行われる健康診断の結果は、常にD判定。指導医師からは、典型的な生活習慣病予備軍としての御墨付きをしっかりと頂いていた。慌てた私は、自分なりの健康回復プ ランをたてた。

 その内容は、1.夕食は必ず19時までに取ること、2.運動習慣を身につけること、とい うのが具体的な内容だった。そのために、一人仕事中会社を抜け出し、食事をした。週3 ?4回程度には約40分のジョギングを欠かさないようにした。するとピーク時には100キ ロ近かった体重が少しずつ減りはじめ、1年後には70キロ代にまで落とす事に成功したの である。


<健康を維持することに、ストレスを溜めるという矛盾。>
 達成感とはまさに恐ろしいモノである。結果が伴うからこそ人間は努力ができるものだ と、改めて実感した。この達成感を学生時代に味わう事ができていたら、私の人生ももう少し華やかになっていたことだろうと、しょうもない夢想さえしていた。ところがである。
一見順調に見えた私の健康改善計画に、新たな問題が生まれてきた。強いて言えば、達成 感依存症とでも健康依存症とでもよべば良いのか?とにかく毎日健康を管理することで頭の中が一杯なのである。

私はつくづく欲が深い人間らしく、ちょっと達成感の心地良さが味わえるかと思うと、 さらに気持ち良くなろうと、より一層の負荷を自らに課して悦に浸るようになっていた。
こうなると少しやっかいである。誰彼かまわずに健康促進の必要性を解くは、サラリーマンの潤滑液ともいえる飲み会はキャンセルする、旅は生活リズムが崩れるから極力しないといったぐあいなのである。

 気がつけば、生活の中心が早く夕食を取ることとジョギングをすることに支配されてい た。「今日は走れなかった」、「少し食べ過ぎてしまった」という後悔の念と、不摂生を 重ねてしまうことで襲ってくる肥満への恐怖。周りの人々への迷惑を考られるような心の 余裕は微塵もなく、自らを社会から隔離するようになっていったのである。ところが、3年 ほどそんな生活が続いたある日、ふとそんな自分に対し窮屈感を感じるようになっていた。


<健康に敏感になり過ぎることが、不健康の種を作ることもある。>
 だいぶ前置きが長くなってしまったが、結局私は何が言いたいのかというと、つまり、 「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということなのではないかと思う。もっとも私のように全くバランス感覚を失うほど、健康に執着する方はそう多くはないとは思うが、詰まるところ何ごともほどほどが良いというのが私が経験を通して学んだことである。

 現在は、幸いにも仕事の関係上、比較的に自由に時間が取りやすい環境にいるためか、 夕食はほぼ世間並みの時間に無理をせずとも取れる。ジョギングを習慣的にやることもない。その代わり、ちょっとの距離であればできる限り歩くようにしている。そして健康状 態はどうか?というと、まずまずなのである。少なくとも不快に思う日は、年間を通しても記憶に残らないほどだ。だからといって健康が気にならないというワケでもない。

 そこで最近私が、「健康管理」という呪縛から自らを開放するために実践している思考 法がある。それは健康を維持することに過度に敏感になるのではなく、不健康に鈍感にな ってみるという思考法である。誠に非科学的このうえない、いい加減なモノだが、何となく効果があるような気がするのだ。それはつまり健康管理を行うがためにストイックになり過ぎて、ストレスを感じるのであれば、いっそのこと不健康を実感しないように心掛け てみるという、ただそれだけのモノである。

 思いおこせば私もサラリーマン時代、健康診断で危険信号が出たものの、今までの人生の中でさほど大きな病気をしたこともなく、体調不良を感じたことも少なかったように思う。体調不良を感じた時ですら、あまり気にとめずにいるうちに元に戻っていた。しかし 世の中は私のように、もともとが鈍感な人ばかりではなく、また先天的な健康体の人ばかりとは限らない。

 とすればこんな考え方はどうだろうか? いささか強引であり、さらに非科学的かつ野蛮的ではあるが、少しぐらいの体調の悪さは意識的に無視し、体調の悪い自分に集中しないという方法である。よく忙しすぎて病気になる暇もないと言っている人がいるが、まさにこのことだと思う。ただしこのような人の場合、意識的に自分に集中しないのではなく、 忙しすぎて集中できないのであるが。

 病は、気からという言葉もある。特に年を重ねていくと、健康を持て余すほどの青年期とは違い、ちょっとしたことで体調不良を実感しやすくなる。しかしそれも年のせいであ って、ごく自然のことと考えれば深刻になることはないし、またなったところで飛躍的な改善が望めるわけでもない。それよりももっと深刻なのは、体調不良を悩み、その思いをいつまでも引きずってしまうことと、ひょっとしたら来ないかも知れない大病への恐怖に心が支配され、呪文のように健康を唱え、不自然なカタチで生活をがんじがらめにしてしまうことなのではないだろうか?

 日頃から健康に気を配り、なるべく不摂生をしないこと、それ自体はとても大切なことだと思う。しかしあまりに気を配り過ぎることで、そのストレスに気づかないまま、不健康の種を作ってしまっている自分がいることも、忘れてはならないと私は思う。

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