コラム
健康づくりを骨から始めましょう
今月のコラム
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このコーナーは各界でご活躍の方々にお願いしております。
6月
その1 稲冨 一興 骨を切る-----
その2 大津 美子 生きる喜び、歌える幸せ〜ここに幸あり〜
その3 櫛部 静二 故障無縁の競技人生
その4 三橋 淳 昆虫は健康食品?
その5 森田 佳世子 骨粗しょう症は生まれつき 
その6 柳川 雅子 米寿の母の健康法
その7 矢作 悠 美ら島
   
五十音順

その1 骨を切る----- 〜稲冨一興〜
 一年ほど前のことであった。たまに行く横浜の小料理屋のガラス戸に、こんな貼り紙がしてあった。「骨切の為、しばらく休業致します。店主敬白」骨切とは、おだやかではない。これは骨折の間違いではないかと思った。聞いた所、たしかに切ってしまったという。ただしという話が続いた。左手の指先を5ミリほどスパッと切ってしまったのだという。若い時なら、こんなヘマはしなかったのに、痛さと悔しさのせいで“骨切云々”の貼り紙を出したということだった。
「何んでまた包丁自慢の親父さんが」
「いえね。つまんないことなんっすよ。テレビに出てたタレントの名前が思い出せなくて色々考えていたら、やっちまったんすよ。全くおはずかしい話で…。」

 他人事ではない。私は今年63才になるが、55才を過ぎた頃から時々、固有名詞、とりわけ人の名前を思い出せなくなることがある。仕事の付き合いがあった人に、久しぶりに街中でヒョッコリと会った時など全くもって困り果てることがある。顔は知っているが、名前を思い出せない。適当に話を合わせているが、すぐに間が持たなくなってしまう。もっとも、相手も私の名前を忘れているのだろうなと、自分を慰めたりする次第である。

 馬齢を重ねれば重ねるほど、心身の健康づくりが大変であると、最近とみに思うのである。ストレスを溜めず、肉体疲労も溜めずにということだろうが、なかなか、永続性のある方法は、あまり見あたらない。

 私の場合は、ここ20年来、柴犬が相手である。現在二代目であるが、初めのうちは私もまだ元気いっぱいだったので、犬はまさにペットであった。しかし二代目の柴犬(ミコ)は、私の健康づくりのパートナーである。横浜市内でも我が家の周りは、まだ緑が多く、毎朝の散歩は結構楽しいものがある。日本犬は飼主に対して特に忠実で理解を示すようで、犬と語らいながら散歩し、季節の移ろいを体感し、時には一句も浮かぶという、これが私の毎日の心身健康法である。

 最近、この楽しい散歩道に異変が起った。とにかくポイ捨てが多い。かん、ペットボトルを中心に、古本、古着、もちろん犬のフンと、よくもまあ、こんなに平気で汚すものだと思う。たまりかねて、ひと月に一回くらいの割合でボランティアをやっているが、この間などは、どこかの奥さんに「オジさん、こちらにもあるわよ」といわれてしまった。

 以前にはヤル気もなかた、このゴミ拾いが全く苦にならなくなったというのも、年のせいかなと思ったりもする。それにしても、“心の健康”を考えたらどうですか といいたい人が多い。

 因みに例の小料理屋だが「元気に繁盛して居ります。店主敬白」ということである。
著者近影いなとみ かずおき

島根県生まれ、明治大学法学部卒。
テレビ朝日報道部記者、警視庁をはじめ関係官庁の報道、情報系番組プロ デューサー歴任。
平成2年NHK、各民放、メーカーとハイビジョン放送立ち上げに参加。
平成10年テレビ朝日データ(株)(ADAMS)代表取締役社長。
このHPも5/9からこちらの地上波を使った文字放送から配信されています。
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その2 生きる喜び、歌える幸せ〜ここに幸あり〜 
〜大津美子〜

 私の歌手への道の第一歩は、疎開先である母の故郷、新城のお寺でやっていた音楽教室からはじまりました。小学校三年生のころです。  もちろんそれまで歌が大好きだったこともありますが、当時から私は心臓に小さな穴が開いている「心室中核欠損症」という病気を患っていたため体が弱く、歌を歌うことでつかう腹式呼吸が健康にいいからと母が進められたのがきっかけでした。  約三年間そこで基礎を教えていただいたのですか、これは健康にとても役立ちました。また、引っ込み思案だったのが人前で話もできるようになったり、友だちもでき、それは私にとって大きな自信になりました。

 昭和二十八年、ご縁があって、当時「上海帰りのリル」「お富さん」などの作曲で有名な渡久地政信先生の門を叩き、渡久地門下生第一号として厳しいレッスンを受けることになるのです。当時高校一年生の私は、土曜日の授業が終わったあと上京して大田区の叔母の家に泊り、日曜日にレッスンを受けて帰郷する、また、春夏秋冬の休校時にはほぼ上京しレッスンを受けるというローテーションでした。昭和三十年。十七才で歌手デビュー。

 翌年には大きな幸運が飛込んで参りました。「ここに幸あり」作詞 高橋掬太郎 作曲 飯田三郎 をいただいたのです。最初この譜面を見せられた時、若い私に果して歌いこなせるだろうか思いました。躊躇している私に作詞家の高橋先生は「いままでの日本の女性はとても耐えてきた、これからは幸せになって欲しい。そんな願いを込めて作ったんだ、だから君の若さをぶっつけ大空に向かって歌ってくれればいいんだ」とおっしゃるのです。このアドバイスのおかげでレコーディングにふみきることができ、発売後も静かではありますが広く大きく流れていきました。そして、私自身の歌手としての位置も新人群から一歩抜け出たものになったのです。その後、浮き沈みの激しい芸能界をなんとかのりこえ私生活の面でも結婚・出産と人並の女性として歩いて参りました。

 しかし、昭和五十五年二月、私の人生にとって大きな試練が訪れたのです。何ごともない平穏な一日が始まるはずの朝、突然めまいと吐き気、こらえきれない頭痛とで倒れました。クモ膜下出血(脳動脈瘤破裂)です。まるで人ごととしか考えも及ばないこの大病が我が身にふりかかろうとは夢にも思いませんでした。すぐさま家族の助けを得て救急外来に運ばれ、入院から手術まで二週間、手術後のケアの為の四週間と通算四十二日間にわたる闘病生活を余儀なくされるわけです。一時は、後遺症も念頭に長期間のリハビリもという話も出たそうですが先生方の的確な判断と治療によってなんとかこの大病を克服できたものと今でも深く感謝しております。手術前後はおぼろげな記憶しかありませんが四日五日と経つうちに、自分のおかれている状態にとてもショックを受けました。頭もてい髪で、食事も自分では思うように食べられなし、これは大変なことだったんだな、またもとどうりの生活が本当に出来るのかしら、とことの重大さにふさぎ込む日々がつづきました。脳の中は人として生きる為に絶対欠かすことのできない命の指令室だといいます。こののち知能や精神に障害が残りこれからの人生を送るようなことになったらどうしようと不安感で一杯でした。

 事実、それまで歌手であったということや、目の前にいるいとおしい我が子すら認識できないことも度々あったのですから。しかし家族の話では、そんな状態の中にも関わらず挨拶や身だしなみにはとても気をつかっていたそうです。長年、身に付いている芸能生活が自意識を働かせてくれたのでしょうか。常に人に見られているという意識が気持に張りを持たせ、回復をおおいに促してくれたのかもしれません。退院も間近になったころ、先生や看護婦さん、周りの方々が入れ替り立ち替り病室にいらっしゃり「大津さん、早く元気になって素敵な歌を聴かせて下さい」と励ましの言葉をかけて下さったのです。私も徐々にですが、よう〜し、助けられた命なんだ、ここは子供の為にもしっかりしなくては、人生まだこれからなんだ、と思うようになっていったのです。

 今、私は後半の人生を歩いております。今まで歌の中でさまざまな人間模様を歌いつづけて参りましたが、これからも自分自身の等身大の歌を、また、人生の機微をひたすら歌っていこうと思っています。そして歌手である以上、人さまの眼の届くところで頑張っていたいと心から願っております。

著者近影おおつ よしこ

愛知県豊橋市生まれ。
学生時代に作曲家:渡久地政信氏の門下生となり『千鳥のブルース』 でキングレコードよりデビュー。二作目の『東京アンナ』で爆発的な 大ヒットとなり、その年NHK紅白歌合戦に初出場(以後6年連続出場)。
代表作の一つである『ここに幸あり』は、国内は勿論アメリカ、ブラジ ルなどでも<日本の歌>として広く愛唱され、また、ハワイでは功績を 認められ<名誉市民賞>を受賞。
昭和55年、突然、脳動脈破裂(クモ膜下出血)に襲われるが、奇跡的に回 復し再起への道を歩む。
平成7年、社団法人 日本歌手協会副会長に選任。(〜平成9年)
平成9年、文化庁長官賞を受賞。
NHKの「1000万人投票・BS20世紀 日本の歌」では「20世紀を感動 させた歌」として、『ここに幸あり』がベスト100曲の中に選ばれる。
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その3 故障無縁の競技人生 〜櫛部静二〜

ゴールテープを切る著者 皆様、桜の花も満開になり、新入生、新社会人の初々しい顔ぶれがたくさん見かけ、1年の季節の始まりですね。
私も、自分の練習で自宅近く公園をランニングしていると、お花見をしている人々をよく見かけます。
楽しそうな笑顔で、親しき友人たちと語らう姿を見ていると、私のランニングの足取りもつられて軽くなってきます。

 私はランナーとして、活動してきましたが、思い起こせば色々な経験がありました。

 箱根駅伝では、皆様もご存知のフラフラになってしまった事件や、日本代表として アジア大会に選考され、日の丸を胸に走った事など色々な苦しい事や楽しい事があり ました。
早稲田三羽ガラスと呼ばれ、その後、実業団選手として活動し、現在もプレーイングコーチとして、平塚潤監督率いる城西大学駅伝部で活動している事。

 思い起こせば、ずいぶんと長い時間、走り続けています。
多忙といえば、うそではないですが、その中で幸運であると思う事があ ります。
それは長距離ランナーであれば、大多数のジョガーが経験する可能性がある、骨に関するトラブルの疲労骨折なども無縁であったし、今も健康体そのものであります。

 大学生選手と練習をしていると、選手が故障に見舞われ、何が原因なのか?とよく考えてしまいます。私と選手を比較した場合、選手のほうが絶対的条件からして、肉体的に若く、私より故障しにくいはずであるのに、なんでだろうと。

 そのときに、ふとTVを見ていたら、バレーボールの河合俊一さんが、幼少の頃から背を伸ばすために牛乳を飲んでいた、とゲストの方と談笑していて、私は気づきました。
私は幼少の頃より、乳製品が好きで、ヨーグルトや牛乳などを好んで食べていました。

 人間は発汗すると、さまざまな成分が身体から外に排出される訳ですが、我々のように、運動強度が極めて高い陸上長距離であれば、どれくらい発汗しているかは察する事はさほど難しくは無いと思います。
そのときに幼少の頃から栄養価の高い乳製品を飲食していた事で、丈夫な骨を作り上げることが可能になったのではないか、と思われます。
もちろん、乳製品だけで出来たわけではないと思います。
でも、私の丈夫な体を作ってくれたのは、両親と牛乳といっても過言ではないでしょう。
これは親には頭が上がりません。

 健康で長生きをするためには、運動も大切ですがもちろん栄養補給も大切です。

 皆さんも無理なダイエットに走らないで、楽しく、焦らず、はつらつと体を動かしましょうね。
それでは、櫛部静二でした。

著者近影くしべ せいじ
山口県宇部市出身。
私立宇部鴻城高校時代、国民体育大会(京都)2000Mface=Century> 障害で高校新記録樹立して優勝。
世界クロスカントリー選手権(ノルウェー) ジュニア日本代表。
山口県選手権 10000Mface=Century> 高校新記録樹立。
全国高校総体 3000Mface=Century> 障害優勝(高校新記録・最優秀選手賞)。
その後、早稲田大学入学。
全日本学生選手権大会(東京) 10000Mface=Century> 優勝。
東京箱根大学駅伝競走(1区区間賞)区間新記録樹立。
東京陸協記録会 1時間走で、20410Mface=Century> 走り日本新記録樹立。
全日本実業団陸上選手権(徳島) 10000Mface=Century> 優勝。
その他、アジア大会等face=Century> 世界選手権へ日本代表として参加。
2002年、別府読売マラソン等、多方面で活躍中。
現在は、愛三工業陸上部に所属し、城西大学男子駅伝部コーチとして
東京箱根大学駅伝競走出場などを目指している。
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その4 昆虫は健康食品? 〜三橋淳〜

佃煮など食品 想い出してみると、私は今まで骨のことを真剣に考えていなかったと思います。骨を心配したのはただ一度、大学を出て間もない頃、スキーで右の脛骨と腓骨をねじ切るように複雑骨折した時くらいです。この時は切開して骨に金属のベルトを巻いてギプスで大腿基部まで固定されて、動けなくなりました。ほんとにくっつくものだろうかと心配しましたが、意外に早くくっついて、3か月後にはギプスも取れて、山歩きを始めることができました。それで骨というものは結構早く修復されるものだと思いました。それ以来骨の怪我や病気はしたことがなく、骨については何となく自信があり、今でも山を登ったり、スキーをしたりしていますが、当然の事ながら年相応に骨も老化していると思うので、用心はしています。

 さて、私の専門は昆虫学で、長年虫を対象に研究をしてきましたが、読者の皆さんは昆虫の骨はどうなっていると思いますか。実は、昆虫は皮膚が硬く、外骨格と呼ばれ、骨の役割を果たしているのです。カブトムシを思いだしていただければ、なるほどと思われるでしょう。言い換えれば、昆虫は骨の中にいる訳です。従って、体内には骨と言えるものがなく、解剖してみても魚の骨のようなものは出てこないのです。昆虫の骨は我々の骨と違って、殆どカルシウムがありません。ではどうして硬くなっているかというと、キチンという糖の一種とタンパク質が複合体を作って硬くなっているのです。昆虫の皮膚に含まれている無機物の中では、マグネシウムが最も多く、カリウム、ナトリウムがそれに次ぐと言われています。昆虫は種類が多いので、当然の事ながら金属含量は種によって異なっています。特に皮膚と言うことではありませんが、イナゴは亜鉛を多く含むとされています。亜鉛が不足すると味覚障害を起こすそうですが、亜鉛を含んでいる食品は少ないので、イナゴの佃煮は健康食品といえるかも知れませんね。

 ところで、大部分の昆虫は食べられます。虫を食べるというと顔をしかめる人が多いと思いますが、昆虫は人類発生の頃から世界各地で食べられ、その食習慣は現在まで続いているのです。日本も例外ではありません。今、日本ではあらゆる種類の食品が豊富にあって、昆虫など食べる必要は全くないのですが、それでもちゃんと食品化された昆虫が数種類市販されています。それは前述したイナゴの他にハチノコ、カイコ、ザザムシなどです(写真)。これらの昆虫はいわゆる下手物として、興味本位に食べられているのかというと、そうではありません。過去の食習慣に対するノスタルジー、あるいは珍味として賞味されているのです。しかし、入手できる昆虫食品は、いずれも醤油、砂糖、味醂、酒で煮た、いわゆる大和煮で、味か画一的になっているのは残念です。最近、世界的に昆虫食に対する関心が高まってきており、将来動物タンパク質が不足した時のために、家畜、鶏、魚に次ぐタンパク資源としての利用が研究されています。

著者近影みつはし じゅん

1932年東京都生れ。55年東京大学農学部卒業、応用昆虫学専攻。同年農 林水産省農業技術研究所入所後、米国ボイストンプソン植物研究所へ留 学。オーストラリア・CSIRO昆虫学研究所客員研究員を経て、
84年、 農林水産省林業試験場天敵微生物研究室長、
88年、東京農工大学農学部 教授。
96年より東京農業大学バイオサイエンス学科教授。
主たる研究は 昆虫の細胞培養。
昆虫栄養生理、昆虫病理、昆虫内分泌に関する研究も 行う。サイドワークとして文化昆虫学の一部として昆虫食に関する調査 研究も行っている。
日本応用動物昆虫学会賞、日本農学賞、読売農学賞 を受賞。
主な著書に『昆虫の細胞を育てる』(94年、サイエンスハウス) 、『世界の食用昆虫』(84年、古今書院)、共編著に『虫を食べる人びと』 (97年、平凡社)など。
趣味:クラシック音楽、園芸、登山、スキーなど。
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その5 骨粗しょう症は生まれつき 〜森田佳世子〜
 骨というと、まず思い出すのが骨粗しょう症です。カルシゥーム不足だと知らぬ間に骨がスカスカになるというんですから怖い病気ですよね。でも人間は、気を付ければある程度予防できるからまだ良い。気の毒なのは生まれつき骨がスカスカな動物たちです。

 私の動物病院にはしばしば足の折れた小鳥が連れられて来るんですが、鳥の骨は例えればかさかさのパイみたい。とにかくもろいのです。カゴの縁に足を引っ掛けたとか、飼い主の捕まえ方が少々きついだけでも折れたりする程です。

 神様は鳥に、空が飛べるという誰もが羨む特技を授ける一方、体重を軽くするために、もろくて折れやすい骨というハンデも与えられたということです。

 そんな風に考えると少々不思議なのがウサギです。空も飛べないのに、鳥同様の骨粗しょう症状態。とても骨折しやすい体の持ち主です。ウサギは余程のことがないかぎり声も出さないおとなしい性格ですから、神様がついうっかり羽を付け忘れても、何の抗議もせず黙って耐えてきたのでしょうか。

 そしてさらにウサギにとって気の毒なのはふっくらと丈夫そうに見えること。小鳥は見るからにか弱いので手荒にできませんが、ウサギは、骨の状態を知らない飼い主が犬猫と同じように扱い、手を持ってぶら下げたために骨折なんてことも珍しくはありません。

 かくいう私も骨粗しょう症ではないもの、体力気力面では結構もろいのです。でも見かけが丈夫そうなので、具合が悪くても周囲はてんで気付かない。そのせいか、ウサギには特に親愛の情を感じます。でも骨粗しょう症だけは似たくない。という訳でこれから先のお婆さんに至る道程は、カルシューム剤をいつも携えてボチボチと進んで行く予定です。
自画像漫画もりたかよこ

1965年生まれ。本名:上村佳代子。日本大学脳獣医学部卒業。
1995年 横浜市金沢区にアリス・ペットクリニックを開業。
動物の治療にあたっては、西洋医学だけに止まらず針灸を取り 入れた治療を試みようと研修している。
森田拳次さんの娘さん。
趣味はガーデニングにエッセイ、漫画などと多彩な面を持つ。
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その6 米寿の母の健康法 〜柳川雅子〜
 私の母は八十八才である。父が亡くなってから一軒家に一人で生活している。父は八十七歳で、十年前に心筋梗塞で、突然死亡した。その後、私や弟の家に、引き取って一緒に住もうと試みたけれども、やはり父と一緒に住んでいた自分の家が一番住み心地が良いと言い、一人で住むようになった。

 父の死後、とても、寂しくて、落ち込んでいたが、私が見るに見かねて、当時、全盛期だったカラオケで歌でも歌えば、少しは気が晴れるのではないかと、進めたのがきっかけで、歌い始めた。最初の頃は、昔からの流行歌などを、近所の老人会の人達と、歌っていたが、今ではカラオケスナックで、最近発売されたばかりの歌を練習し、仲間の前で披露している。お腹の底から、発声したり、緊張したりすると、血の流れが良くなり、肺にも、心臓にも良いらしく、若い頃からの持病の心臓病で、今六十歳近い弟が、「僕が、中学生に上るまで、お母さん、死なないでね。」と言っていた母が、時々、発作を起こしはするが、今まで元気に生きてこれた。

 その上に、母はとてもオシャレでモダンである。今でも、月に一〜二回は自分が着る洋服や、それに合う帽子、靴などを、コーディネートさせるために、ショッピングに出かける。顔も出来るだけ美しさを、保てる様に、お手入れも、怠らない。近所の人達にいつも着飾って美しいと誉められるので、身の回りに気を使って、身奇麗にしている。

 そして、もう一つ元気の秘密は、物事に対して、何でも意欲的で、積極的である。一人住まいなので、ヘルパーさんが、週二回来てくれるが、基本的には食事から家の事、全て、自分で賄っている。今だに、六十歳を越えた娘の私に対して、説教もするし、命令もする。

 私は八十八歳になっても、尚且つ、意気軒昂で、アグレッシブな母を、応援し、誇りに思っている。
著者近影やながわまさこ

大阪生まれ。神戸女学院大学卒業。
お子さんの学童時代はPTA活動など精力的に社会的活動を続けており、 昭和61年から現在まで横浜家庭裁判所にて家事調停委員として活躍。
調 停委員として教育的・指導的立場にもあり、若手委員の育成にも努めて いる。
現在は二児の母であり、また4人の孫を持つ。
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その7 美ら島 〜矢作悠〜

 ホエールウオッチングをするために美(ちゅ)ら島に出かけてきました。朝8時20分にホテルを出発し浦添ふ頭に向かい大型クルーザーに乗り換えてポイントまで行きます。前日は鯨の休日で見ることが出来なかったようです、今日は期待を込めてと気合の入る船長のもとでかかる波しぶきにたえ40分弱、沖縄と渡嘉敷島の中間地点にやってきました。すでに先発の船がザトウクジラの出現を待っています。私達の到着を待ってくれていたかのように潮を吹く姿をとらえることが出来ました。二頭います、一頭はおそらく母親もう一頭は子鯨のようです、ゆっくりと海面を泳いでいます、突然母鯨のほうがテイルスラップ(尾びれを水上に出し振り下ろす)をはじめました、こうなると5分くらい海面には浮上してきません。海画像
子鯨はその間潮を吹いて海面を漂っていましたが淋しくなったのかヘッドスラップ(頭を水から出して水面を叩く)をして母鯨を呼んでいます。そうすると母親が子鯨のそばに浮上してきます。鯨たちは暖かい海で繁殖活動と子育てをするために1月から4月にかけて毎年やってくるそうです。デジカメでシャッターチャンスが悪くこんな写真になってしまいました。

 私達は銀婚式の記念として沖縄にやってきました、子供達も二十歳を過ぎ自分の判断に任せる時期になっていますが、一方で介護生活を余儀なくされています。妻の94歳になる叔母のお世話をしています、面倒を見ていた義父母もすでにこの世にはなく叔母にも子供がいないために妻の姉妹達が実家に出向き順番で介護担当しています。加齢とともにぼけも少々入ってきました、彼女の一日はベッドに横になる時間が多くなっています、骨は年齢に比べるとしっかりしているようで、自分でつかまり歩きは出来ます。私の自宅で面倒を見ることはかまわないのですが、生活環境を変えることが彼女にとって良い事なのかと考えると不安と心配で移すことが出来ません。そうなると介護によるリスクは私達の兄弟家族に全てかかってきます。私のところは先ほど申したとおり皆自立していますのでまだ問題は少ないほうなのですが、まだ中学生の子供を持った義妹もいて母親が家を空けるということはそうそう出来にくくなります。必然的に都合のよい姉妹が面倒を見るということになります。妻達も大変ですが、それぞれの家族全員にも負担がかかり頭で介護を理解していても不満がつのってきます。このような状況の中で今度の旅は私達夫婦のストレスを発散できるよいチャンスでした。

沖縄の画像 世界遺産にも登録されている中城城跡を訪れました、名築城家といわれた護佐丸が築城した最高傑作といわれています。標高160mに立ち中城湾を見下ろす見晴らしのよい場所にあるお城です。ところで美しい沖縄にも14世紀に三山戦国時代がありました、三山とは「中山」と「山北」・「山南」の三家をいいます。佐敷・知念を領地とする「山南」の尚巴志が中山王を討ち琉球王国を樹立させるまで100年の時が必要でした。美ら島のその後は薩摩藩による属国支配、明治維新によって沖縄県の設置、沖縄が巻き込まれた悲惨な太平洋戦争による敗戦、米国の統治から1972年に日本に復帰して今日になります。2000年にサミットが開催され9のグスク(お城)が世界遺産に登録されました。手入れをされなかったこのお城は写真のように朽ち果てていますが、いまは調査が行われ整備をはじめた所です。首里城のように美しい姿を見せてくれることと待っています。

 ところで私は歩く生活習慣病といわれています。高血圧・痛風・中性脂肪の薬を飲んでいます、唯一糖尿病の疑いがないことが助かっています。沖縄の旅は4日間でしたが車で移動したにもかかわらず43、584歩、平均10、896歩と一日のノルマを達成しました。薬の効き目もありますが歩くことが症状の改善をしているような気がしています。私の体も手を加えなければ朽ち果てるだけ、3年前にタバコをやめました次にお酒もやめなければならない状況にならないように一歩一歩を踏みしめ歩き、養命酒を飲み、鯨のようにおおらかに首里城のように優雅な姿を保てるように毎日ノルマ達成のためにこれからも歩きたいと思います。

著者イラストやはぎ ゆう

私は広告関係の仕事に従事しながらエッセイストとして活動いたしており ます。

いまは能因法師や源融があこがれた「道の奥」をテーマとして奈良 から平安時代を舞台にした作品を執筆中です。

その作品を読んでいただけ る日も近いと思います。
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