健康づくりを骨から始めましょう
       
         
       
         
  このコーナーは各界でご活躍の方々にお願いしております。
     
 

5月

その1 木阪 昌知 医療に倫理
その2 竹田 美文 久米川正好先生との50年―驚きの数々
その3 辻 忠良 知的障害者の歯の治療
  その4 待田 順治 継続は習慣
  その5 森田 拳次 図星
  その6 山田 正興 骨の微量元素とバイオミネラル
  その7 横本 宏 よく食べ、よく遊ぶ
(五十音順)
     
           
    その1 医療に倫理  〜木阪 昌知〜
     
     イギリスに度々優勝するような体操選手がいた。しかし、交通事故に遭い、左足を痛めて20回もの手術を繰り返したが痛みは取れなかった。痛みに堪え兼ねた彼は線路に足を縛りつけ、列車の通過を待った。機関士が見つけて急停止したが既に遅く、足はひざの上から切断されていた。駆け寄った機関士に「これで6年間の苦しみが終わった」と叫んだという。もし、痛みが取れなかったら、とは誰も考えない。しかし、もし痛みが取れなかったら・・・、その時は死ぬしか痛みから逃れる術のないこともある。
 医療は痛み、苦しみ、よるべなく病む者を救う。ヒポクラテス以来 2500年、医療は人々を生老病死の苦しみから救い、癒し、それのならない時は死に送った。ヒポクラテスは「医者にして哲学者は神にも等しい」と言ったが、これほどに倫理的な術はあるまい。しかるにアスクレピアードの医師達は「ヒポクラテスの誓い」で人命の尊重、差別の禁止、守秘義務などを宣言した。知識、技術に医道といわれる倫理の宣言である。日本にも赤ヒゲ先生仁訓のような「医は仁術」という言葉がある。     
 しかし、医師達はなぜ倫理的な医療行為を行いながら加えて医の(自律)倫理を宣言するのだろう?理由は簡単である。医師は「生殺与奪」の権限を持っているからである。つまり、生かすも殺すも医師の胸先三寸、である。もし、目覚めの気分で、好き嫌いで、命に物差しを持っていて医療を行ったらどうであろう。ナチス医師団や731部隊が行った人体実験、最近筋弛緩剤による安楽死事件が話題になったが、これでは命を付託する、などならない生業になる。だから、人命を尊重すると宣言する。戦後世界医師会は「ジュネーブ宣言」や「医の倫理の国際綱領」を採択したがその核心は「自己の技術の最善を尽くす・患者に危害不正を加えない」である。この当たり前を当たり前として宣言する、医療ならではのことである。
 ところで、不妊に悩む女性に排卵誘発剤を用いる。すると時には5胎という多胎児になる。母子の健康を考えれば2胎が望ましいとガイドラインは勧告する。さて、命の誕生に手を貸す医療が3胎の減数を行って命を選別する。生きる命と死ぬ命、命の選択が医師の手の内にある。危害を加えないと宣言しながら、生きる命の価値を生み出すと死ぬ命を差別する。年間40万にも及ぶ堕胎から、出生前診断、果ては遺伝子操作から再生医療へと功利的な判断が倫理を押しのけていく。判断に窮すると患者に自己決定を迫る。もうかっての医の倫理の枠組みでは捉えきれない医療の先走りがある。しかし、一体なんのために?この理由も簡単である。自然死という願いを叶えた医療に人々が望んでいるは不死の信仰である。人間は死ぬものである、とは受け入れられない故の苦、四苦八苦の苦しみから救い出そうとしてきた医療は、ここにきて新たな欲望、不死を叶えようとしている。しかしである、「欲望は塩水を飲むがごとく」際限のないものであるし、死ねない苦しみに人間を陥れるとはよもや考えもせぬらしい。
     
   

著者近影


きさかまさとも 

1967年法政大学文学部哲学科卒,同大学大学院研究科前期過程修了
現在明海大学歯学部教授,哲学と医学倫理学を担当。
その講義には定評があり学生の評価は大変高い。また学生のみならず教員のよきアドバイザーでもある。
学外では日本医学哲学・倫理学会会長を務めた。現在日本臨床死生学会理事。

     
       
 
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    その2 久米川正好先生との50年―驚きの数々   竹田 美文      
     昭和29年の4月、大阪大学の新入生の健康診断の日、順番待ちの行列に並んで退屈していたその時、隣の新入生に“君はどこから来たの''と話しかけた。それが久米川正好君であった。徳島県の穴吹高校と聞いて驚いた。“僕は脇町高校"と応えたら、彼も驚いた。穴吹と脇町は吉野川を挟んで隣町で、脇町から大阪へ出て来るには、まず穴吹駅までバスに乗る。そして徳島本線で小松島港まで2時間近く。今では無くなった阿摂航路で7〜8時間、大阪港の天保山桟橋から市電に乗って梅田の大阪駅まで約1時間、と穴吹はいうならば脇町に生まれ育った“僕"には交通の要所だった。
 久米川君は歯学部、“僕"は医学部薬学科の新入生として、時に触れ、折に触れて、郷里を語り、異郷での初めての一人暮らしの淋しさを慰め合う間柄であった。
 2年後、“僕''は医学部に進み、時々一緒に医・歯学部合同講義を聴きつつも、大都会の生活になじみ、楽しむことを知るにつれて、田舎を語る必要性が薄れ、お互いの仲間に埋没していった。
 “僕"が大学院を卒えて、フルブライト留学生としてアメリカに渡ってしばらくたった頃、手にしたフルブライト留学生名簿に“久米川正好"の名前を見つけて驚いた。テキサス在住となっている。猛烈に会いたくなったものの、ボストンに住んでいた“僕"には、テキサスは何とも遠かった。せめて声を聞こうと、連絡を試みたが、うまくいかなかった。
 ローズのチェンバーの“久米川正好"として久米川君が鮮烈な国内デビューをしたのは大阪万博(1970年)の頃だったように思う。あるいはもっと早くから専門領域の研究者の問では知られていたのかもしれない。当時“僕"は流行の学問とはやしたてられていた分子生物学の領域で研究をしているつもりだった。生命現像のすべてが分子のレベルで説明できると信じて研究していた“僕"には、“臓器の培養"ができるチェンバーに命をかける研究者の存在は、鮮烈な驚き以外の何ものでもなかつた。
 30年の時が流れた。“僕''は公務員の職を定年で退き、私立の女子大学で公衆衛生学を教えて2年、久米川君はどうしているのかなと思っていた矢先、“骨の健康づくり・リレーコラム''に寄稿するようにという誘いをいただいた。“僕''のことを忘れていないかったのだ、と驚かされた。そして、昭和29年の春から50年近くの久米川君とのもろもろのことが、頭の中を駆けめぐった。

     
   

著者近影

たけだよしふみ

1935年徳島県生まれ。
大阪大学微生物病研究所助教授を経て
1983年東京大学医科学研究所教授,その後京都大学医学部教授となる。
国立国際医療センター研究所所長 国立感染症研究所所長 等歴任。
現在実践女子大学生活科学部教授。
日米医学協力委員会委員長を始め厚生労働省の各種委員等役職多数。
小島三郎記念文化賞・武田医学賞 等を受賞。
     
       
 
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    その3 知的障害者の歯の治療〜辻 忠良〜      
     私は最近になって知恵遅れの患者さんの歯科治療を担当している。単に知恵遅れだけでなしに、四肢の不随意運動、痙攣、てんかん発作や、自閉傾向があってこだわりが強い性格を持つなどさまざまな障害を持っている方が対象である。はじめて話を聞いた時は障害児で子供さんだと思ったら20歳以上の患者さんも多い。
 これらの患者さんは痛い時は別として、虫歯の病気を治すという意識はないから、何故自分が歯科医院に連れてこられて治療台に座って歯を削られるかは判らない。だから、削る器械や麻酔注射の不快さを辛抱出来ない。嫌なことが一つでもあるとパニックを起こして泣き叫んだり、走り回ったり、自傷行為で抵抗する。 歯科治療の必要性を理解する一般の方でもあの環境がイヤだと治療を敬遠し、辛抱して治療台に座っても、血圧が上がったり、脳貧血を起こして気分が悪くなり、できれば行きたくないと思う方が多いのだから障害者は当然である。
 私は63歳の定年まで病院で口腔外科を中心に診療に携わってきたが先天的発育不全の知的障害者は多く経験していなかった。本を読み学会に出て研修した。そして、パニックでの行動は彼らの意思表示であり言葉である、それを理解して受容と共感を持って接し、段階的に歯科治療を体験させてゆくことが必要であり、医者との信頼関係を作ること、まがりなりにもインフォームドコンセント、納得診療が最優先であることを勉強した。そして、症例を見せて頂き上手く行動調節が出来てあんなに嫌がっていた子が歯を削らせているのを見て感動し、嫌なことを押さえつけられて抑制下で治療された心理的な浸襲が後の歯科治療の拒否に繋がることに驚いた。自分で患者に応用していつまでも旨く行かないケースに落胆といらだちを覚えながら一喜一憂した。
 散髪屋さんで頭を刈れて、自分で服のボタンがとめられる知能発育があれば、歯を磨いてあげることから経験させ、痛くない、怖くないことを納得させれば行動調節が可能であり、通常の歯科治療が出来るといわれている。しかし、時間を掛けても出来ない患者さんの虫歯は進行してゆくので行動調節の時間が限られる。また、連れてくる親御さんにも都合があって無制限に時間が取れないので途中で来れなくなる。そのために行動調節の可能性を診断することが必要だ。この方面の研究が急がれる。しかし、これが難しい。気ままに育ったために駄々をこねているのか、本当に恐怖にさいなまれているのかすら判断出来ない。
 急性期の口腔歯牙疾患では処置が優先されるので選択肢として鎮静剤の投与や全身麻酔が応用されているが、抑制ネットで蓑虫さんになって頂くこともある。このときでも痛みや不快感を与えて医者嫌いにさせてはならない。以後の歯科治療が出来なくなるからである。しかし、局所麻酔の注射や点滴注射の針を刺すのがまた痛い。困ったことだ。
 注射を辛抱すれば後は楽になるという論理は障害者には通じない。歯を削る器械のストレスは痛くさえなければ我慢して病気を治そうなどとは思わない。彼らは無垢な正直者なのである。
 こう考えると知的障害者が受け入れられるような快適な医療環境は一般の人が秘かに求めている医療の快適性と同じではないだろうか。われわれ医療人は病気を治すのだから患者さんに少しは辛抱して貰って当たり前だと考えていることが多い。ここらでストレスにならない病院環境、診療処置技術を考案し、医療の多くの面での快適性を作り出すのが医療人の務めではないだろうかと思い至った。
 言うことを聞かない知恵遅れの患者さんから教えられた最近の大発見である。
     
   
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著者近影

つじよしふみ

1934年大阪生まれ。
1960年大阪大学歯学部卒。
口腔外科学専攻,兎唇口蓋裂患者の治療,術後の発音指導等を行なった。その分野での歯学博士の学位を得る。
以後1977年関西労災病院口腔外科部長を20年間務めた。
定年後尼崎,宝塚口腔保健センターで障害者医療をどうすればとの毎日である。
学生時代からヨット部に属し大いに活躍された。現在は社交ダンスを楽しみ,自分の健康を心掛けているとのことである。
     
         
   
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    その4 継続は習慣   〜待田 順治      
   


ランニング中の筆者
 私はランニングと水泳を約25年間続けている。  運動不足を嘆いていた42歳時に、同僚に刺激されてランングを開始した。約3年後に最初のフルマラソンを3時間33分で完走し、それ以後多数の市民大会に参加してきた。水泳もその頃から開姶した。かなづち同様の中年男性が、入門書だけを頼りに独学することは非常に厳しかったが、数年後には50mプールで個人メドレーが泳げるようになった。以前に比べて質・量ともに低下してきたが、現在も隔日にランニングと水泳を継続している。  これらの運動は今では日常生活の中にすっかり溶けこみ習慣づいているようだ。一見激しい運動メニューを、さほど苦痛とも感ぜず、翌日に疲労を残さずにこなせている。今日も元気にやれたという溝昆感・達成感を求めているようだ。  日常生活にも必然的に、いろいろな配慮をしているスケジュールを立てる時には、運動予定を優先する。食事・飲酒・睡眠・交通手段などささいなことでも、運動にとって不利益な行為は制限し、利益になる行為は発掘して、運動をしやすい環境の保持と体カ・柔軟性の強化を心がけている。  さらに、衆知の人生教訓(あせらずかつ忍耐強く、上り坂あれぱ下り坂あり、苦の後に喜あり、向かい風は強く感ずるが追い風は弱く感ずる、小さな改良の蓄積で大きな成果など)を運動を通じて体得した。  健康増進のために運動をする重要性が指摘されている。しかし運動を身につけるには、激しい練習もさることながら、日常生活にも常々配慮することが基盤として重要である。望ましい日常生活を定着さすためには反復・継続が不可欠である。このようにして得られた健康的日常生活には、運動の習慣化が付随してくる。習慣化した運動はいつまでも継続できそうである。健康であるから運動ができることを実感できることは非常に幸福である。細々とでも良いから、いつまでも運動ができる身体でありたい。      
   

著者近影
 


まちだじゅんじ

1935年兵庫県生まれ。
1960年大阪大学歯学部卒,口腔外科学専攻で診療,とくに兎唇口蓋裂患者の治療,発音等の指導にあたってこられた。
その間2年米国へ留学,その面の研鑚を深めた。
松本歯科大学教授,大阪逓信病院歯科部長などを歴任。
ランニング,スイミング暦25年。大阪・神戸大震災時には自宅と病院との往復に,ランニングが多いに発揮されたときく。

     
         
   

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    その5 図星       〜森田 拳次〜      
   

 

著者漫画固定ギブス

 もう十四、五年もまえのことになるけど、両足の踵を骨折したことがあった。
 その際治療してくれた先生が
「こういうのはケンカ傷に多いんですよ。ちよっとした高さ、例えば窓なんかから飛び降りたりした時にはずみで踵がくだけちゃうんです」
 と云うのでドキッとした。
 まさに図星。初めはお互いには遊びのつもりで付き合っていた女性と深みにはまって泥沼状態になり、しばしば大喧嘩を繰り返したあげく、女性の部屋の窓から逃げ出そうとしてコンクリートの道路に飛び降りたところ、踵が砕けたというのが真相だったからである。
 その後も肩や手など何度か骨折を繰り返した挙げ句、結局妻子の待つ家に戻ることとなった。
 そして数年後、庭で犬とたわむれていたところ石に躓き、又しても足の甲を骨折してしまったのである。
     
 前科が前科なので友人連は信ぜず、
「ケンカの挙げ句折れたらしい」
 とか、ひどい奴は
「仕返しに女房にやられたのじゃないか」
 などと言いふらす始末。
 そんななか、メロンを持ってはるばる見舞いに来てくれた友達に感激したら
「で、ホントのところはどーだったの」
 なんて聞く。もっとも野次馬精神が旺盛なだけだったと云う訳だ。
 自由奔放に生きてきた私もそろそろ六十半ば。最近は罪滅ぼしもかねてなるべく穏やかな暮らしを心掛けている。それと同時に脆い骨を配慮してカルシュウム剤や牛乳を飲み、飛び降り、蹴飛ばしなどもなるべく謹しむなど、おくればせながら気配りにつとめる毎日を過ごしている。
   
著者自画像
もりたけんじ

1939年東京生まれ。
『丸出だめ夫』で「第5回講談社児童漫画賞」(1960)受賞。
31歳で渡米し,ひとコマ漫画修行。1984年にヨーロッパ漫画連盟FECO Nipponを結成。ベルギー「カートゥーンブック・オブ・ザ・イヤー賞」(1981)受賞。「第5回読売国際漫画大賞自由部門金賞、優秀賞(計11回)」受賞。「第20回日本漫画家協会漫画大賞」(1991)受賞。ベルギーのノックへイスト漫画展コンクールで「グランプリ」(1992)受賞。作品集に『ひとコマ1/2ザ・ファミリー・オブ・マンガ』(1981)、『もののけカレンダー』(1998)などがある。
ヨーロッパ漫画連盟をJAPANCHに改称し活動中。JAPANCHの活動の成果『ビバ、シェフ!』で2001年文化庁メディア芸術祭優秀賞。中国引揚げ漫画『少年たちの記憶』で2002年文化庁メディア芸術祭特別賞。現在、(社)日本漫画家協会理事国際部長。
森田氏は,漫画の原点である「起承転結」全てが含まれ,さらに発想のオリジナリティが必要な非常に内容の濃い「一枚絵」で表現されるひとこま漫画の第一人者。また、エッセイストとしても活躍中。
     
         
   

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    その6 骨の微量元素とバイオミネラル骨の微量元素とバイオミネラル      
   

著者近影
骨の無機構成分にはミネラルの他に微量の金属と非金属が存在する。人体に必要なミネラルをバイオミネラルとって、単なるミネラルと区別されている、人体に必要な元素の中で重さの1/1000(mg/g)以下の微量元素で、更に1/1000000(μg/g)以下の超微量元素も判って来た。そのような微量元素については生物学的にも医学的にも、又栄養学的も、「本当に必要なのか」、「必要とすると何故にか」などまだ未明の間題を含んでいる。
 20世紀の栄養学の進歩につてコロンビア大学・人体栄養研のMyron Wnick博士は10項目に総活している。その一つは微最金属の人体栄養で、亜鉛(Zn)、鉄(Fe)、銅(Cu)、クロム(Cr)、セレニウム(Se)、鉛(Pb)がとり上げられてはいるが、他にも大気や海洋の汚染問題、生体のホルモンのバランスを乱するものも知られてい21世紀には更に超微分析による成果が期待される。
     
   

  硬組織は微量元素の溜り場・履歴書
 生物の硬組織は古くはカンブリア期から現代まで多様元素蓄積の指標となっている。古代の気象もカルシウム(Ca)とマグネシウム(Mg)の比をバイオミネラルのマーカーとてケンブリツジ大のJ.Dikson教授は有用であることを立証している(Science298,2002)。
 土中に埋葬されている骨の元素は「どのように保存されているか」については判っていない。土葬後、経時的に元素の出納を調べると、出る元素(一)と入る元素(十)と平衡する(不変)元素(=)がある。主に土質によるが、Ca、Mgは(一)、アルミニウム(Al)、硅素(Si)、鉄(Fe)は(十)、硫黄(S)は変わらない(四宮、山田:Forensic Sci.98、1998)。新しい背骨に白金(Pt)が出たが、これはPtを含む抗癌剤の蓄積であった(南・山田:Bio1.TraceE1.Res.(BTER)42,1994)。こんな調査によって、骨のミネラルや金属は少なくとも本来あるものと、後の有害蓄積もある。それをどうして見分けるのか。東大の植原博士は古代の人骨の比較にCaとの比に注目した、しかし出土骨の元素比較にSとの比がより有効な目安となる(山田:BTER,1996)。 

 溜り方に偏りがある
多くのミネラルや金属が存在していても、同じ種類の器官や組織では一定しているものかと問えば、答えは乏しい。骨の中でも部位によって、生涯年齢と無関係に一定しているものと変るものがある。例えば耳小骨のCaや燐(P)は不変であるが、逆に背骨と椎問板(軟骨)には高さによる勾配があり、且つ年齢に応じて変動する(東野、山田他BTER59,1997)。背骨の高さによる骨密度については臨床医学的に無数の調査がある。しかしどうして密度差ができるのか。その内訳はどうなっているのか。少なくとも椎骨の個々の元素比については充分な調査がない。脊柱形成の遺伝子は判っているが、権骨の個々の問題はDNAでは説明できない。
 骨の成分中メジャー元素すなわちCa、Mg、P、Sの他にマイナー元素としてA1、Znなどがある、権骨の存在する高さによる差は単に燐酸カルシウムの密度だけの問題ではない。超微量元素のも差がある。その例としてSiは下部になるにつれて多く、Ca量の変化とは逆の関係である(山田:BTER90,2003)。
これは生物工学的にも今後の課題であろう。 

 骨の元素の多様性と学際研究
 このような微量元素については医学の範囲を越えて人の食物連鎖から環境間題とも関連している。その一つとして栄養学的に必須の元素も拡大され、Fe、Cuの他にZn、コバルト(Co)、Cr、Seの他にも追加される可能性がある。必須と言っも大量に過ぎれば有害であり、少量に過ぎても障害がある。生体側だけでなく食品の側からも適正な監視には必要な基礎研究が重要である。A1、錫(Sn)は食器として有用であが、量的には有害性が指摘されている。Siの炭化物窒化物どアモルファスのSiが電子工学にも注目されているが、このSiのようにまた海洋生物についても超微量元素は生態系の保全や汚染のマーカーとして重要であろう。(山田他BTER65,1998;80,2001;2003)。生体に無用とされている元素も将来有用となる可能性がある。

     
   
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著者近影

やまだまさおき

1947年大阪大医学部卒後,1961年奈良医大教授,1966年徳島大医学部教授。専攻は細胞分光学専攻。主としてマススペクトロメトリーによる骨元素分析,とくに微量成分の解析を行った。
その間,スエーデン政府給費生医学ノーベル研究所への留学,さらに仏インセルムグスタフ・ルシイ研究所へ交換教授として赴任。
定年後奈良医大講師現在に至る。
     
       
     
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    その7 よく食べ、よく遊ぶ  〜横本 宏〜      
     私は、1939年に東京の大田区で生まれましたが、戦争の最期の2年間は、父の知人の伝で姉たちと栃木の方に疎開していました。戦争が終わって自宅に戻った翌年に、小学校に入学しましたが、疎開先の農家にいたときとは違って、東京では食べるものが無く、あまりの空腹に、家の柱をかじったことさえありました。ただでさえ食糧難の時代に、両親と8人の子供という大家族でしたから、余計食べるものに困ったのだと思います。
 また、私は、その8人の子どもの7番目で、戦後生まれの弟を含めて、兄弟姉妹の中では最も虚弱だったようです。顔色が悪く、しょっちゅう歯茎から血を流している私を見て、お腹にいる時に、お前にあげる栄養が足りなかったからだというのが母の口癖でした。そんな状態を心配してだと思いますが、小学校4年生のときに、千葉県に設けられていた大田区立岩井養護学園という養護施設にあずけられました。
 そこでの生活は、毎朝起床の音楽がかかると、その音楽に合わせていっせいに乾布摩擦を行い、朝食後は教室に移って授業を受けます。10時には、コップ一杯の温かい牛乳が出され、昼食後は、居住室と教室の掃除をやり、3時のおやつのあとは自由時間でした。行ったのは冬でしたから、海水浴はできませんでしたが、天気さえよければ、毎日、岩井の海岸を駆け回っていました。その施設にいたのはわずか半年ですが、親にいわせますと、見違えるように元気になって戻ってきたそうです。
 たしかに、それ以後はずいぶん丈夫になったようで、中学校・高校はほぼ皆勤でしたし、昨年、大腸のポリープ切除のために、一泊入院をしましたが、それまでは、病気やけがで入院したということもありません。それに、身長はあたりまえとしても、体重が中学生の頃からほとんど変わらず、多少の増減はあってもその違いが2kgを超えたことはありません。幼いころ、ひもじい思いをしたからでしょうか、食べるものに一切好き嫌いはなく、適度に運動もやってきたのがよかったのだと思います。
 父の職業は、柔道の道場主で、それほど好きだったとはいえませんが、高校までは私も柔道をやっていたというか、やらされていました。そのほか、中学では陸上競技をやっていましたし、水泳、特に海で泳ぐのが大好きです。また、結婚して3人の子供が生まれましたが、そのうち2人は男の子で、2人とも小学生の時に、町内の子供会が組織している少年野球チームに入りました。
 その練習や試合を見に行っているうちに、当時の監督から手伝ってもらえないかと声をかけられ、それ以来20年以上、監督は4回ほど代替わりしていますが、私の方はずっと、毎週日曜日に子供たちと野球を楽しんできました。私自身は、それまで野球の経験は皆無なので、子供を指導するというよりも、子供たちに遊んでもらってきたという方が当たっていると思います。特に意識したことはありませんが、よく食べ、よく遊ぶというのが私の健康法なのかも知れません。
     
   

著者近影

よこもとひろし

1939年東京生まれ。
北海道大学卒業後,北海道銀行,国民生活研究所(後に国民生活センター)に勤めたのち,1988年から明海大学経済学部教授に就任,「経済統計論」を担当。
経済学部学部長として銀行,研究所時代の経験を生かし,大学の管理に大きく貢献された。
     
           
     
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